萩城趾

【はぎじょうし】

萩城は長州藩毛利家の居城であり、日本海に面した指月山一帯に造られた城である。

豊臣政権下では120万石を誇った毛利家であるが、関ヶ原の戦いで立場は一挙に悪くなる。西軍の総大将に当主の毛利輝元が担ぎ上げられたが、その裏で東軍とは戦わず本領安堵の約束を徳川家に取り付けていた。ところが、実際には長門・周防の2カ国のみ、36万石にまで大幅な減封を余儀なくされたのである。さらに新しい居城の建築を幕府に打診したところ、候補地の中で最も遠隔地となる萩を指定された。これらの仕打ちに対して毛利家では、常に幕府に対して恨みを持ち続けたと言われる。

その恨みの深さを知らしめる伝説がある。

萩城は慶長9年(1604年)から築城が始まり、強制的に隠居させられた毛利輝元は、着工したばかりのその年に居を構えている。そして翌年の正月以降、以下のような新年の挨拶が取り交わされたという。

主席家老が藩主に対し「今年はいかがで……」と問い掛け、藩主が「時期尚早じゃ」と答える。たったこれだけのやりとりであるが、秘中の秘とされ、確証のない噂だけが流れた。家老の問い掛けは「幕府を討つのは今年か」という意味であり、それに対して藩主は「まだだ」と答えるのである。この秘密の儀式は毎年萩城内で続けられたという。

元治元年(1864年)正月。前年に攘夷を決行し、さらに京都から追放されて幕府との対決に舵を切っていた長州藩の新年の挨拶は、今までのものとは異なっていた。毛利家伝来の大鎧を身に着けた藩主・毛利敬親と、具足を着けた家臣一同の間には、例の問答をおこなう必要はなかった。ただ、前年に藩主は山口に政庁を移転しており、萩城内の出来事ではなかったのである。

<用語解説>
◆毛利輝元
1553-1625。毛利元就の長子・隆元の嫡男。父の隆元急死のため、祖父より家督を継ぐ。豊臣政権下では五大老の一人となる。関ヶ原の戦いでは西軍の総大将として大阪にあったが、最終的には一戦も交えないまま徳川家に降伏する形となった。領地減封の際に隠居。関ヶ原の戦いにおける一連の行動から暗愚と評される。

◆毛利敬親
1819-1871。長州藩第13代藩主。村田清風・周布正之助らを登用して藩政改革に成功して雄藩の基盤を作る。また高杉晋作などの有能な若者を取り立てて、一気に倒幕を推し進めた。明治維新後は藩主として版籍奉還をおこない、直後に隠居する。

アクセス:山口県萩市堀内