殿塚・姫塚

【とのづか・ひめづか】

扇谷上杉家の家宰(筆頭家臣)であった太田道灌の生涯はまさに戦闘に明け暮れたといっても過言ではないだろう。その中でも最もめざましい戦功を立てたのは、文明8年(1476年)に始まった長尾景春の乱である。

山内上杉家の家宰である長尾家の家督争いから山内・扇谷の両上杉家に反旗を翻した長尾景春であるが、それに呼応して関東の豪族が蜂起して大乱となった。扇谷上杉家の支配する武蔵・相模でも景春に味方にする有力豪族が現れた。中でも最も厄介な存在となったのが、石神井城を拠点とする豊島泰経であった。豊島氏は名族であり、石神井城・練馬城・平塚城(東京都北区)に拠って、道灌の居城である江戸城と、扇谷上杉家の居城である川越城を分断するに至った。そのため、道灌は急ぎその障害を取り除くべく、兵を動かして豊島氏を攻撃する。

文明9年(1477年)4月、道灌は泰経の弟・泰明の平塚城を攻撃。寡兵と見せて泰明を城外へおびき出し、さらに援軍に駆けつけた泰経軍と合わせて江古田で合戦に及び、これを完膚無きまで叩く。泰明は討死、泰経は石神井城へ逃げ戻るが、道灌に取り囲まれるという事態に陥ったのである。

もはやこれまでとした泰経は、家宝の金の鞍を白馬に乗せて跨ると、三宝寺池にそのまま飛び込んで自害する。そしてその姿を見届けた二女の照姫も三宝寺池に入水し、ここに石神井城は落城となり、名族の豊島氏も滅亡した。道灌の平塚城攻撃から一月足らずの出来事であったという。

三宝寺池は、今は石神井公園の一部として残され、池の周囲には遊歩道もできている。その遊歩道に2つの塚が残されている。一つは泰経を祀る「殿塚」、そしてもう一つは照姫を祀る「姫塚」とされる。今でもこの塚のある辺りから池底を眺めると、金の鞍が見えると言われている。また、石神井落城の頃には「照姫まつり」が催される。

ただし、この伝説は史実ではなく、明治時代に書かれた小説が下敷きになっているのではないかという説もある(小池壮彦氏による)。

<用語解説>
◆太田道灌
1432-1486。扇谷上杉家の家宰として辣腕を振るい、扇谷上杉家の南関東支配を確立させた。特に上の豊島氏との戦いはほぼ独力で敵方を滅亡させる働きをする。しかしその後、これらの活躍に対して主家が怖れを抱き、暗殺という結末を迎えることになる。

◆長尾景春の乱
1476-1480。山内上杉家の家宰であった長尾家の家督相続に端を発する戦乱。山内・扇谷の両上杉家と20年近く戦ってきた古河公方・足利成氏が味方し、景春に同調する豪族も多かったが、太田道灌がことごとく居城を落としていったために古河公方側から和睦の申し入れがあり、膠着することなく短期間で終わる。孤立した景春は逼塞するが、道灌暗殺後に起きた両上杉家の戦いの際に扇谷側に味方をして、再び山内との戦いに臨んだ。

◆豊島泰経
生没年不詳。現在の東京23区の大半を領有していた名族。伝説では三宝寺池に入水して亡くなったとされるが、史実では落城の際に脱出に成功、その翌年に平塚城で再挙するが再び道灌に蹴散らされ、最終的に武蔵の小机城に逃げ込んでいる。しかし小机城の落城後は行方知れずとなり、豊島氏は事実上滅亡する。

アクセス:東京都練馬区石神井台