鐘ヶ淵
【かねがふち】
荒川区と墨田区の境界線として流れる隅田川が大きく西から南に曲がる部分が、鐘ヶ淵と呼ばれる場所である。その名の通り、この淀みの部分には沈鐘伝説が残されている。
この沈んだ鐘の来歴については複数の説がある。元和6年(1620年)に普門院という寺院が亀戸の替え地に移転する際、什器を積んだ船を渡している最中に落とした半鐘である。あるいは、橋場の長昌寺という寺にあった釣鐘が享保5年(1720年)の洪水で流されて沈んだものである。さらに奇怪な言い伝えでは、この鐘は、千葉常胤が娘の夕顔姫の菩提のために建立した瑞応寺のものであったが、天文21年(1552年)に千葉氏が北条氏に降った時に、戦利品として北条氏が持って帰ろうとした。船で運んだところ、突然若い女の泣き声が聞こえだし、それが唸り声に変わると、遂には嵐のように川が波だったために鐘を沈めたのだという。
この伝説に興味を抱いたのが、8代将軍の徳川吉宗であった。鐘を引き揚げよという命を下した。そこで用意されたのが、江戸市中の女性数百人分の黒髪で編み上げた綱である。これを鐘の竜頭に結びつけて引っ張り上げようというのである。そして名人の水夫がその綱を持って川の底へと潜っていったのである。
鐘を見つけた水夫は早速、髪の毛で出来た綱を竜頭に結びつけた。すると目の前に若い美しい女性が一人現れた。女性は「この鐘は主のあるもの。勝手に持ち出すことは出来ません」と言う。水夫は将軍の命に背くわけにはいかないと応えると、「ならばあなたの顔も立てることにしましょう」との返事であった。
水夫の合図で綱はゆっくりと引き上げられ、鐘は川底から浮き上がってきた。そしてその先端の竜頭の部分がいよいよ水面から出ようとした。しかしここで突然、髪の毛の綱が何者かの力で断たれるよう切れ、鐘はまた川の底に沈んでいったのである。ほんのわずかに竜頭だけが水面から顔を覗かせたところであったいう。その後将軍が再度鐘を引き上げるよう命じることはなかった。
アクセス:東京都荒川区南千住/墨田区堤通