甚内神社
【じんないじんじゃ】
江戸に幕府が開かれた直後、“三甚内”と呼ばれた3人がいた。そのうちの一人、高坂(向坂)甚内を祀るのが甚内神社である。創建は江戸時代初期と言われるが、詳細は分からない。
高坂甚内は、正確な出自は判らないが、武田家の重臣であった高坂弾正昌信の息子とも孫とも言われ、武田忍者の頭目であったとされる。主家滅亡後は、武田家再興を願って、その軍資金を稼ぐために盗賊となって江戸市中を荒らし回っていた。そして幕府成立直後の慶長8年(1603年)に、同じく盗賊を稼業としていた、北条家の忍者であった風魔小太郎を幕府に密告して捕縛させて、この裏の世界で最大の勢力を誇るところまでに至ったのである。
しかし、その後は自身が追われる立場となり、慶長18年(1613年)に遂に捕縛され処刑された。捕縛された時、甚内はちょうど瘧(現在のマラリア)に掛かっていて身動きが取れないところであった。そこで処刑される間際に「もし瘧でなければ捕らえられることもなかっただろう。私は魂魄をこの世に留め、瘧に悩む者が祈願すれば平癒させよう」と言って果てたとされる。そこで人々は、処刑場があった鳥越の地に小祠を建てて、甚内を祀ったのである。今でも命日に当たる8月12日には、多くの人が参詣に訪れるという。
<用語解説>
◆高坂甚内
?-1613。武田家家臣の高坂弾正昌信の子とも孫とも言われるが、正確な出自は不明。開府直後の江戸市中を荒らす盗賊として暴れ回るが、後に捕らえられ刑死する。逸話では、宮本武蔵の弟子となって剣術を学ぶが破門。また『番町皿屋敷』のお菊の父親とされて、話中にその名が登場する(ただしこれは時代考証が全く不正確であり、明らかな創作である)。
◆三甚内
高坂甚内の他に、鳶沢甚内と庄司甚内がいる。
鳶沢甚内は風魔小太郎を配下で盗賊をしていた(小太郎捕縛時に不在で生き延びたらしい)。そして高坂甚内の捕縛の際に居場所を教えたとされる。その後は盗賊から足を洗い、古着屋を営みつつ盗品があれば幕府に密告するという役割を担い、やがては現在の中央区富沢町に大店を構えている。
庄司甚内も風魔小太郎配下であったが、早くに盗賊の稼業を辞め、江戸にいる私娼をまとめ、幕府に遊郭営業の許可を得ることに成功する。後の吉原町の総名主・庄司甚右衛門である。
アクセス:東京都台東区浅草橋三丁目