荒法師

【あらほうし】

月山富田城趾から少しばかり離れた、耕作地の脇にある。車道に面して案内板もあるので見落とすことはないが、それらが無ければ気に留めることもないほど小さく古びた五輪塔である。これは塩冶掃部介の墓であると言われている。

文明16年(1484年)出雲国の守護代を任されていた尼子経久は、守護の京極政経の命に背いたために守護代解任と月山富田城追放という憂き目に遭う。この経久に代わって新たに守護代として月山富田城に入ったのが塩冶掃部介である。

しかし実力のある経久は早々に城の奪還を試みる。翌々年の文明18年(1486年)の元旦、正月恒例の万歳行事に紛れて城に入った味方が奇襲をおこない、あっさりと城は落ちてしまった。その時、塩冶掃部介は妻子を殺すと自害して果てたという。

塩冶という姓から、出雲の有力豪族であり、守護代に任ぜられてもおかしくないだけの家格であることはうかがい知れるが、当時の史料からは該当する人物名は出てこない。それ故、実在を疑問視する向きもあるが、その無念の思いを残した墓だけは実在する。“荒法師”という名は塩冶掃部介の別称であるとされ、地元ではこのように呼ばれている。そしてこの墓をみだり触るなどすると祟りがあるとされ、いまだに路傍に置かれたままとなっている。

<用語解説>
◆塩冶掃部介
?-1486。上記にあるように出自不明の部分が多い人物であるが、意外なところにその名が記されている。上田秋成の『雨月物語』にある「菊花の約」の主人公の一人である赤穴宗右衛門を軍学の師とし、密偵として遣わしたのが塩冶掃部介であり、また宗右衛門の身に起こる悲劇が、尼子経久による月山富田城の奪回と塩冶掃部介の謀殺に端を発するという設定になっている。

◆尼子経久
1458-1541。月山富田城を本拠とする出雲守護代の家に生まれ家督を継ぐが、一時期その職を剥奪され浪人となる。後に守護代に復帰、さらに京極氏から独立して領国経営にあたり、山陰一帯を支配する戦国大名に成長する。最大時には11カ国を領有したとされる。

アクセス:島根県安来市広瀬町