穴森神社
【あなもりじんじゃ】
御神体は、姥嶽(祖母山)大明神の化身である大蛇が住んでいたという岩窟である。実際、元禄16年(1703年)に大蛇の骨がこの岩窟から発見され、宝永2年(1705年)に藩命によって岩窟を神体として祀ることになったと記録される。
この大蛇にまつわる伝説は、『平家物語』巻八に登場する。九州に落ち延びた平家を駆逐した、豊後の豪族・緒方三郎惟栄の5代前の祖先が、この神の化身である大蛇と里の娘との間に生まれた子供であると紹介されているのである。
豊後の里に住む娘(『源平盛衰記』では塩田大太夫の娘とされる)に許に、夜な夜な男が通った。そのうち娘は身籠もったが、相手の男の正体は分からない。そこで男の着物の襟に針を刺して緒環(おだまき)を付けておいた。翌日、緒環の糸の後を追うと、姥嶽の下の大きな岩屋に辿り着く。娘が呼びかけると、岩屋の奥から「私の姿は見てはいけない。身籠もった子供は男児で、弓矢や打ち物を取っては九州に並ぶ者がないだろう」と声がした。娘がさらに懇願すると、声の主が岩屋から現れた。それは15丈(約4.5m)もある大蛇であり、喉笛に針が刺さっていたのであった。
その後、娘は無事に男児を産み、祖父の名前から“大太”と名付けられた。子供は7歳で元服し、手足があかぎれでひび割れていたために“あかがり大太”と呼ばれたという。これが緒方三郎惟栄の祖先である、大神惟基となるのである。
<用語解説>
◆緒方三郎惟栄
生没年不明。豊後の有力豪族。『平家物語』では「畏ろしき者の末裔」と称されている。早くから反平家として九州にあり、平家を大宰府より追い落とし、さらに源範頼の九州攻めの際には船を提供して勝利に貢献した。平家滅亡後は源義経に与し、共に九州へ行こうと大物浦から船に乗るが難破、ここで頼朝方に捕縛されて上野国沼田へ流された。その後の消息は不明。竹田市にある岡城は、惟栄が義経を迎え入れるために築城したものが原形であると伝えられる。
◆大神惟基
生没年不明。豊後大神氏の祖とされる。子孫は臼杵氏・三田井氏・阿南氏など豊後国南部の豪族として続き、豊後の武士団を形成する。
豊後大神氏は、豊後に赴任した大和の大神氏(上記の伝説と同じ“蛇婿入り譚”が伝わる大神神社に繋がる氏族)の後裔であるとの説も有力視されている。
アクセス:大分県竹田市神原