観音寺 仏海上人即身仏

【かんのんじ ぶっかいしょうにんそくしんぶつ】

「日本最後の即身仏」と言われる仏海上人の即身物が安置される寺院である。

仏海上人は文政11年(1828年)に村上の町に生まれ、16歳の時に湯殿山注連寺に入門、30代半ばに湯殿山仙人沢で荒行をおこなう。その後は本明寺の住職をはじめ、この観音寺の住職を務め、明治36年(1903年)に76歳で永眠、境内奥にて入定した。

この最後の即身仏については、法律という大きな壁が立ちはだかった。上人は生前から土中入定の準備をおこなっていたが、県からの指導で、結局亡くなってからの入定を余儀なくされた(生きたまま入定することは法的には自殺であり、周囲にも自殺幇助で拘束される怖れがあったため)。さらに30年後に掘り出すよう遺言がなされていたが、こちらも墳墓発掘禁令によって延び延びとなり、昭和36年(1961年)にようやく「発掘調査」の名目で掘り出されることとなった。そのためか、掘り出された即身仏はほとんど崩れ落ちてしまっており、新潟大学で修復された後に安置となった。近代化という波に翻弄された即身仏であると言えるだろう。

なおこの観音寺の山門には振袖地蔵と呼ばれるお地蔵さんがある。ある六部が恐山で火車に乗せられた若い女の幽霊に出会う。女には罪科はないが、親の強欲のために責め苦を受けており、改心をして欲しいと訴えた。六部は承知したが、これが真実であると証明するための物が欲しいと言うと、娘の幽霊は着物の片袖を与えた。そして村上にある親元を訪ねて事の次第を伝え、片袖を見せると、親もその事実を認めてこの地蔵を供養として建立したという。

アクセス:新潟県村上市肴町