葛城一言主神社
【かつらぎひとことぬしじんじゃ】
葛城の地は大和朝廷の黎明期における中心地であったとされる。いわゆる“欠史八代”と呼ばれる綏靖~開化天皇までの時代 には宮が置かれていたとされる。また葛城一族は武内宿禰を祖として鴨・蘇我・巨勢氏などの有力豪族に分かれていった。いわゆる古代日本史の大きな鍵を握るエリアなのである。
この葛城一族の神とされるのが【一言主神】である。ところがこの神様はかなり出自が怪しいのである。一言主神は雄略天皇との遭遇という有名なエピソードで初めて登場する。しかもこのエピソードは不思議な変遷を辿るのである。
『古事記』によると、葛城山で雄略天皇は自分たちと全く同じ格好の集団と出会う。そしてその相手が「悪いことも一言、善いことも一言で言い放つ神。葛城の一言主の大神である」と名乗ると、天皇は恐れおののき、供の者の衣服まで差し出したという。
ところが、『日本書紀』になると、雄略天皇と一言主神はその場で意気投合し、大いに狩りを楽しんだことになる。天皇と神とが対等の立場で描かれることになる。
さらに『続日本紀』に至っては、雄略天皇は事もあろうに、無礼があったとして一言主神を土佐へ流刑に処したのである(ここまで遠くに流刑となった神は他にはいない)。
ではなぜここまでこの神に対する天皇の態度が変貌したのだろうか。古代の最大勢力を保っていた葛城氏が滅びるのは、雄略天皇の時代である。天皇による武力制圧である。その事実を神話ではあるが、大仰に書ける環境が整ったというのが真実である。
<用語解説>
◆欠史八代
綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化の2~9代の天皇は、実在していなかったという古代史の説。初代神武と10代崇神の和名が同じであることなどから多く支持されている。逆にこれらの天皇は葛城地方にあった王朝に属し、崇神以降とは一線を画する政権であったとする実在説もある。
◆一言主神
神代の記述には現れず、雄略天皇の事項で初めて登場する神。扱いが粗略になっていく展開は、上に書いたままである。さらに『日本霊異記』では、醜い顔の神であり、役行者に使役される身分にまで貶められている。
おそらくこの一言主神は事代主命と同じ神であると推測される。『古事記』において事代主は大国主命の息子として国津神のサイドに組み込まれてしまったため、葛城氏系の祖神を新たに創出する必要性があって登場したのであろう。
現在では、一言であればどんな願いでも叶えてくれる神として信仰を集めている。総本社がこの葛城一言主神社となる。
◆『続日本紀』
延暦16年(797年)に完成。『日本書紀』に続く勅撰史書。この時代には葛城系の貴族は賀茂氏を除きほとんどが没落しており、代わって三輪系(崇神天皇後の政権エリア)の藤原氏が台頭している。このあたりの政治的な権力バランスが、一言主の扱いに影響していると言える。
アクセス:奈良県御所市森脇