飛行神社

【ひこうじんじゃ】

人間は科学の力によって文明を今なお発展させ続け、日々新しい物を発明、発見そして人間の活動の範囲を日々拡張させている。そのような中、日本人は新しい領域にもそれらを司る神々があると信じ、さまざまな神を祀った。飛行神社も、その名の通り、航空関係者を護る神々を祀る神社として建立された。ただこの神社が異彩を放つのは、創建者として初代宮司を務めた人物自身が“日本の航空機開発の先駆者”であった事実である。

二宮忠八が航空機の着想を得たとされるのは、丸亀歩兵連隊時代の明治22年(1889年)11月、野外演習時に烏が滑空する姿を見て思いついたとされる。その後明治24年にゴム動力によるプロペラ飛行実験に成功、さらに有人飛行を可能にするための“玉虫型飛行器(飛行器は忠八の造語)”の模型を作った。しかしここで日清戦争が勃発。忠八は戦地に赴き、有人飛行器開発を陸軍に3度上申するが却下される。

忠八はこれを機に退役を志願し、個人による開発に舵を切って製薬会社に勤務する。そして明治39年(1906年)以降、再び飛行器開発に取り組めるようになった。だが後日、アメリカのライト兄弟が明治36年(1903年)に動力機付き有人飛行に成功していたとの報を目にすると、開発を全て放棄して本業の製薬業に勤しみ、自ら製薬会社を興すに至ったのである。

時は過ぎ、大正4年(1915年)。飛行機は欧米で急速に開発・製造されることとなり、それに比例して開発や操縦時の事故による死者も多く出た。また前年に始まった第一次世界大戦では偵察用に航空機が使用され、軍事化が進んでいた。そのような状況で、忠八は航空機開発者の責任として、航空機事故等で亡くなった人を慰霊し祀ることを思い立った。そして京都府八幡町(現・八幡市)の自邸内に創建したのが飛行神社である。

飛行神社の祭神は三柱。中央は飛行の神として饒速日命、右は航空殉難者及び航空功労者の霊、左は薬祖神・金毘羅・白蛇をそれぞれ祀る。宮司は初代・二宮忠八から現在3代目となるが、いずれも二宮家が継いでいる。また平成以降資料館が神社に併設され、二宮忠八の飛行器開発関連の資料が保存されている。

<用語解説>
◆二宮忠八
1866-1936。愛媛県八幡浜の生まれ。子供の頃から物理化学に興味を持ち、学生時代には“忠八凧”と呼ばれる玩具を考案し学費の足しとした。丸亀連隊時代に航空機の固定翼の原理を思いつき実験に成功、さらに有人飛行機開発を試みるが陸軍の不採用によって頓挫。その後独力で開発を続けるが、ライト兄弟の成功を知って断念する。航空機開発断念後は製薬事業家として活躍、大正8年(1919年)に知己を得た陸軍幹部を通じて航空機開発の件が知られるようになり、その功績は国から評価され、国定教科書にも掲載された。

◆饒速日命
『日本書紀』によると、天孫降臨とは別に天照大神の命を受けて天磐船に乗って河内国に降臨したとされる。この“舟に乗って天より降り立った”ことより飛行の神として崇敬された。なお二宮忠八は飛行神社創建にあたり、河内の磐船神社より饒速日命を勧請している。

アクセス:京都府八幡市八幡土井