むかで姫の墓

【むかでひめのはか】

南部利直の正室・於武の方は先祖がむかで退治した時に使った矢の根を持参してきたが、その亡くなった時に、遺体の下にむかでを連想させる模様が現れた。むかでの祟りを恐れた利直は、むかで除けの堀をめぐらせた墓を作るように命じた(むかでは水が苦手なため)。だが、その墓へ行くための橋を堀に架けたのだが、一夜にして破壊されてしまった。そして何度も付け替えようとするのだが、むかでが現れてそれを破壊した。墓から大小のむかでが這い出てくるし、さらに於武の方の髪も片目の蛇に変化して石垣の隙間から出てきたという。そこで於武の方を“むかで姫”、その墓を“むかで姫の墓”と名付けたという。

この於武の方は蒲生氏郷の養妹、つまり先祖は近江国でむかで退治をした俵藤太(藤原秀郷)である。このむかで姫の伝説は、まさにこの俵藤太の伝説が発端となって広まったものであることは間違いないだろう。

<用語解説>
◆於武の方
1573-1663。蒲生家家臣の小倉氏の娘であり、会津100万石の太守・蒲生氏郷の養妹(諸説あり)。盛岡藩初代藩主の南部利直の正室となる。寛文3年に江戸で死去。法名は源秀院。

◆俵藤太の百足退治
近江の瀬田の唐橋に大蛇が横たわり人が通れなくなったが、俵藤太だけはそれを踏みつけて渡った。その夜娘が訪れ、大蛇は自分の化身であり、琵琶湖に住む龍王の娘と名乗る。三上山の大百足に悩まされており、助けて欲しいと頼む。快諾した俵藤太は、山を七巻半する大百足に矢を放つが効果がなく、最後の一本の矢じりに唾を付けてようやく退治したとされる。

アクセス:岩手県盛岡市名須川町