北山稲荷神社
【きたやまいなりじんじゃ】
天慶3年(940年)2月14日。新皇を名乗り、関東一円を支配下に置いた平将門が討ち死にする。藤原秀郷・平貞盛の軍勢と合戦中、誰が放ったか判らない矢が額(或いはこめかみ)に当たり落命したという。この将門最期の地となるのが北山古戦場である。
この古戦場の有力な比定地が北山稲荷神社である。すぐそばを幹線道路が走り、24時間営業のコンビニエンスストアが隣接しているにもかかわらず、神社の中は手入れされていない草木が延び放題となっていて、全く時空から隔絶されたかのような印象がある。ある種の【魔所】である。
この稲荷神社が将門最期の地と考えられるようになったのは、昭和50年(1975年)にこの場所から1枚の板碑が発見されたためである。この板碑には平将門の命日が刻まれており、さらにそれを供養したのが長元4年(1031年)、源頼信であることが記されていたのである。長元4年は、平将門の乱以降で最も激しい内戦が関東で繰り広げられた平忠常の乱を、頼信が鎮圧した年であり、信憑性はそれなりに考えられるところである。
<用語解説>
◆源頼信
968-1046。父は源(多田)満仲、兄は源頼光。河内源氏の祖。甲斐守在任中に起こった平忠常の乱を収束させ、その後、関東の武士団と主従関係を結ぶことで、源氏の東国基盤を形成する。その基盤は子の頼義、孫の義家と継承され、鎌倉幕府成立にまで及ぶ。
◆平忠常の乱
平将門の叔父にあたる平良文を祖父に持つ平忠常が起こした反乱。忠常は上総の有力武士であり、広大な領地を背景に強大な武力を有して専横が目立っていたが、安房の国司を焼殺して朝敵となる。約3年間朝廷軍に対して抵抗を続け、上総・下総・安房は荒廃する。そして源頼信が朝廷軍の主将となると、忠常は出家して降伏してしまう(護送中に病死。死後斬首となる)。この戦いを契機に、頼信は関東の武士と主従関係を結び、源氏の東国基盤を作り上げた。
アクセス:茨城県板東市辺田