海禅寺
【かいぜんじ】
海禅寺は、平将門が父の菩提を弔うために建てた寺である。また本尊は、将門の娘・妙蔵尼の持仏であったとも伝わる。その後、将門の子孫を名乗る下総相馬氏の菩提寺となるが、戦国時代後期以降の相馬氏の衰退と転封によって荒廃する。江戸時代に入って領主の堀田氏が再興、奥州相馬氏も参勤交代の折りに立ち寄ったという。
海禅寺の境内には、8基の石塔が整然と並んでいる。これが平将門と七騎武者の墓である。一番右端の大きな石塔が平将門の墓といわれ、中央部に「平親王塔」と刻まれている。そして残りの石塔は平将門の7人の影武者の墓とされている。寺伝では、承平7年(937年)に京から帰国した将門を待ち伏せていた平良兼と平貞盛に襲撃された時に、身代わりに討ち死にした家臣7名であるという。将門本人の墓と称されるものは数多いが、家臣の墓は珍しいものである。
<用語解説>
◆相馬氏
平将門を祖と称する千葉氏(常胤の代)から、鎌倉幕府成立直後に分かれた一族。父より相馬御厨(現・守谷市も含む一帯)を譲り受けて相馬姓を名乗る。鎌倉幕府滅亡直前、家督問題により分裂。旧地に残った下総相馬氏と、所領であった磐城へ移った陸奥(奥州)相馬氏の二流となる。下総相馬氏は、豊臣の小田原攻めの際に改易となって以降旗本として存続。陸奥相馬氏は江戸時代以降も存続し、明治維新まで同じ領地を統治し続けた。
◆平将門の影武者
将門には7人の影武者があるという伝説は、室町期に成立した『俵藤太物語』に既にあるほど有名である。その人数については、将門が信仰していた妙見信仰に基づくもの、即ち、北極星と北斗七星の関係を、将門と7人の影武者という形になぞられたと見るのが有力である。またこの影武者は生身の人間ではなく、将門の超能力によって出現したものであるとされている。そのため、本人と影武者を見分ける方法は秘中の秘であり、それを愛妾(桔梗・小宰相などの名称)から聞き出す伝説も残されている。
アクセス:茨城県守谷市高野