笠間稲荷神社

【かさまいなりじんじゃ】

“日本三大稲荷”の1つに数えられる笠間稲荷神社であるが、その由緒は古く、社伝では白雉2年(651年)を創建としている。実際に『常陸国風土記』にも稲荷の祭神である宇迦之御魂命が祀られていたとされる記述があるが、それ以降の記録は殆ど残されていない。

現在の笠間稲荷神社の隆盛のきっかけとなったのは、寛保3年(1743年)、笠間藩主であった井上正賢にまつわる伝説である。その年の夏、正賢の夢枕に束帯姿の白髪の老人が現れ、自分は稲荷神であるが、社地が狭く里人も憂いていると告げた。夢から覚めた正賢のそばには1個の胡桃が落ちており、老人の告げた場所に果たして稲荷の祠があったため、急ぎ社地を拡張して祭具を奉納した。

さらに数年後、正賢が江戸にあった時、再び官人が胡桃1筺を献じて訪れ、社地拡張を謝して消えた。正賢はますます神威を敬い、自ら祠を参拝し、藩の祈願所と定めたのである。

この稲荷神社の祠は、胡桃の古木の下にあったため“胡桃下稲荷”と呼ばれており、現在も笠間稲荷の別称として伝えられている。さらに笠間稲荷には“紋三郎稲荷”という別称がある。社伝では、藩主・井上正賢の縁者に門三郎という者があり、笠間稲荷の信者獲得のために大いに尽力したので、紋(門)三郎の名が冠せられたとされる。しかし紋三郎の名には,全く異なる系譜の伝説が残されている。

笠間の近くの瓜連という地には、常陸国二之宮である静神社がある。この社叢に、昔、源太郎・甚二郎・紋三郎・四郎介という4匹の狐の兄弟があった。兄弟は、仲間の狐が人に悪さすることを嘆き、それぞれが罪滅ぼしに常陸の各所に散って土地を拓くことにした。源太郎は瓜連に残って川を守り、甚二郎は米崎へ行って野を守り、紋三郎は笠間へ行って山を守り、四郎介は那珂湊へ行って海を守った。その甲斐あって各地は栄え、兄弟も神として祀られるようになった。笠間稲荷は、即ち紋三郎狐を祀ったものであるというのである。

紋三郎狐の伝説で有名なものに、棚倉藩の殿様の鷹を取り戻した話がある。笠間で鷹狩りをした殿様の鷹が1羽消えてしまった。狐の仕業とにらんだ殿様は狐狩りを命じた。すると翁が現れ、狐狩りを3日延期してくれるよう頼んだ。そして3日目に鷹は無事戻ってきて、1匹の老狐が倒れていた。紋三郎狐が悪い狐を懲らしめたのだということである。

<用語解説>
◆日本三大稲荷
総本社である伏見稲荷大社(京都)の他は諸説ある。他の有力なところとしては、豊川稲荷(愛知)、祐徳稲荷(佐賀)、笠間稲荷(茨城)が挙げられる。

◆井上正賢
1725-1766。正式な名は“正経”とされる。笠間藩井上家第3代。その後、磐城平藩、浜松藩へ移封される。京都所司代、大坂城代、寺社奉行、老中を歴任する。

◆静神社
名神大社に数えられる古社。主祭神は健葉槌命で、武甕槌神(鹿島神宮祭神)と経津主神(香取神宮祭神)が平定できなかった悪神・香香背男を倒したとされる。

アクセス:茨城県笠間市笠間