藤波橋(藤橋)

【ふじなみばし ふじはし】

神岡町の中心部を流れる高原川に架かる藤波橋は、昭和5年(1930年)に完成した鉄橋である。赤く塗られたその姿は場違いなほど目立つ存在でもあり、それでいて町のシンボルとしてしっくりと町並みに溶け込んでもいる。この橋があった場所には、かつて“藤橋”と呼ばれた藤蔓で造られた橋があったという。そしてこの橋を舞台にし、かつてこの土地で起きた悲劇を伝える謡曲「藤橋」が残されている。

原本は田中大秀らによって書かれたとされ、昭和8年(1933年)に謡本「藤橋」として発刊。地方で作られた謡曲として平成15年(2003年)に神岡町文化財指定を受け、同18年(2006年)に飛騨能「藤橋」として完成披露されている。

一人の僧が舟津の里(今の神岡町)を訪れ、藤橋の景色に見とれている内に日が暮れたために、近くの家に宿を求めた。その家の女主人は、縁の人のために経を上げて欲しいと頼んだ。

かつてこの辺り一帯を治めていたのは江馬時盛という豪族であった。ある年の盆の夜に酒宴を開き、館に家来などを招いた。その時に時盛の妻の明石は舞を披露し、宴は大いに盛り上がった。しかしその夜更け、時盛の寝所に賊が押し入り、時盛と妻の明石を刺殺したのである。それは父である時盛と対立する嫡男の輝盛の策略だったのである。

涙ながらに昔の話をする女主人を不憫に思った僧が名を尋ねると、時盛の妻の明石の亡霊であると正体を明かす。事の真相を知った僧は非業の死を遂げた夫妻のために、夜通し経を読んだのである。

やがて夜が明けようとする頃、明石が江馬の館で舞を披露した時の衣装を身につけ、再び僧の前に現れた。僧の読経によって成仏することが出来た礼として、明石は一差し舞を披露すると、いずこともなく姿を消したのである。

<用語解説> 
◆田中大秀
1777-1847。国学者。飛騨高山の富裕な薬屋の長男として生まれる。本居宣長晩年の弟子であるが、生涯のほとんどを飛騨高山で過ごし、古典研究や神社再興などを手がける。

◆江馬氏
戦国時代に、飛騨国北部の高原郷(現在の神岡町周辺)を拠点とした豪族。姉小路(三木)氏と飛騨国の覇権を争い続けた。江馬時盛(1504-1578)は武田氏と手を結ぶことで勢力拡大を図るが、嫡男の輝盛(1533-1582)は上杉氏を推すために度々衝突したとされ、ついには父を暗殺するに至る。しかし、織田氏を後ろ盾とした姉小路氏が次第に勢力を増してきて、江馬氏は徐々に衰退。最後は姉小路氏との八日町の戦いで、当主の輝盛が討ち死にしたため江馬氏は領地を失う。これにより姉小路氏の飛騨統一が完成する。その後羽柴秀吉の飛騨攻めの際に、輝盛の嫡男の時政(?-1585)が羽柴勢に属して活躍するが、旧領復帰は果たせず、逆に反乱を起こしたために自害に追い込まれ、江馬氏は滅亡する。

アクセス:岐阜県飛騨市神岡町東町