文知摺石
【もぢずりいし】
文知摺観音堂を中心に信夫文知摺公園がある。この「文知摺」という名であるが、この信夫地方に古来あった染色法であり、紋様のある石に絹をあてがい、その上から忍草の葉や茎を擦りつけて染色したものという。これにちなんで名付けられたのが文知摺石(別名:鏡石)である。
中納言・源融が陸奥国按察使として赴任していたが、ある時信夫で道に迷い、村長の家に泊まった。そこで娘の虎女を見初めて相思相愛の関係となった。しかし都に戻るよう命を受けた融は再会を約してその地を去った。残された虎女は融に一目会いたい一心で観音堂に願を掛け、文知摺石を麦草で磨き続ける。そして満願の日、ついに磨き込まれた文知摺石に融の姿を一瞬見いだしたのである。だが、そこで精根尽き果てた虎女は病の床に就き、そのまま亡くなってしまう。その死の直前に、都にあった融から一首の歌が届く。それが古今和歌集に残る
“みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆえに 乱れんと思う 我ならなくに”である。
この伝説の有名さ故、後世の歌人達も多く訪れており、松尾芭蕉も実際にこの石を見ている。ただ『奥の細道』によると、通りすがりの人々が麦の葉をちぎって石を磨くので、村の者が怒って石を谷へ突き落としてしまって、半分埋まってしまった状態であったらしい。一説によると、この石は未だにひっくり返ってしまっている状態のままであるとも言われている。
この公園内には、常に人肌程度の温もりを保ち続ける“人肌石”や北畠親房が揮毫した不思議な文字の“甲剛碑”などがあり、非常に面白いスポットとなっている。
<用語解説>
◆源融
822-895。河原左大臣。嵯峨天皇の十二男であり、源姓を賜って臣籍降下する。『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされ、六条河原院を造成して、そこで陸奥国塩釜を模した庭園を造ったことでも有名である。またその死後に亡霊となって、河原院を訪れた宇多上皇の前に現れたという伝説も残す。
陸奥国按察使に任命されていた時期は864-869年であるが、実際に赴任する慣習は途絶えており、融自身も訪れていないとされる。また古今集に収められた歌は後に『小倉百人一首』にも採用されている(一部改編あり)。
アクセス:福島県福島市山口字寺前