浄念寺 空誉堂

【じょうねんじ くうよどう】

慶長9年(1604年)に落成した浄念寺は、舜道上人が開基である。そしてその境内にあるのが、舜道上人の師である空誉上人の墓を祀る空誉堂である。空誉上人は、福岡藩主黒田家にとって非常に深い関わりを持つ名僧でありながら、同時に、虚実を織り交ぜながら黒田家の暗部に根を張る存在でもある。

史実とされる空誉上人の略歴は、空誉堂の横にある説明書に詳しい。播州の生まれであり、播州に所領のあった黒田孝高(如水)の帰依を受け、豊前中津へ転封となった時にも付き従っている。中津では合元寺を開基するなどしており、また朝鮮出兵の際には文官として従軍もしている。さらに関ヶ原の戦いの後に福岡へ転封となった際も付き従って、智福寺を与えられている。

ところが慶長16年(1611年)、空誉上人は智福寺で捕らえられ、処刑される。その方法は残虐で、背中を太刀で切り割られ、そこに溶けた鉛を流し込んで殺したとされる。しかも死体は打ち棄てられ、埋葬を許さなかった。そこで弟子の舜道上人が決死の覚悟で死体を背負い、浄念寺まで運んで埋葬したのである。しばらくは祀られることもなかったが、墓のそばの松の木に鳥が止まると落ちて死ぬなどの怪事があり、次第に人々の信仰を得て小堂が建てられるようになったという。

空誉上人が処刑された理由であるが、浄念寺によると、藩主・黒田長政と不和となって出奔した後藤又兵衛基次が幕府と敵対する豊臣家の味方となったため、昵懇であった空誉上人(一説では二人は叔父・甥の間柄とも)が説得に行ったが、逆に豊臣方に内通しているという讒言を受けて処刑されたとされる。だがこの理由には矛盾があり、空誉上人の処刑がおこなわれた時期には、後藤基次はまだ豊臣方に加わっておらず、内通云々という事態にならないのである。

この手のひらを返したような仕打ちの真相が不明である故か、時代を経るに従い、空誉上人にまつわるまことしやかな噂が流布する。

『箱崎釜破故』をはじめとする黒田騒動に関する巷説を記した書籍に、空誉上人の存在は取り込まれる。曰く、空誉上人は豊前の土豪であった城井鎮房の庶子であった。曰く、寺小姓を差し出すようにとの藩主・黒田忠之の命を拒否したために勘気を被り、空誉上人は処刑された。曰く、空誉上人が処刑された理由は、当時城下で起こったお綱の刃傷沙汰を巡る対立にある等々。いつしか空誉上人処刑を命じたのが2代藩主の忠之であるとされ、黒田騒動の発端となる事件の当事者というように誤解されるようになった。さらに黒田家に祟りをなす城井一族とみなされ、博多の町を代表する怨霊と化していったのである。

<用語解説>
◆後藤又兵衛基次
1560-1615。黒田家家臣。主戦として多くの戦功を挙げるが、主君である黒田長政と次第に不和となり、出奔。武功で有名であったため多くの大名から誘いがあったが、長政から「奉公構(他家への出仕を公に禁ずる処置)」が出ていたため浪人となる。その後、大阪方に請われて入城、豊臣方の主将格となって大坂冬の陣を戦う。夏の陣で野戦を仕掛け、戦死。

◆『箱崎釜破故』
成立年・著者とも不明。黒田騒動を題材として書かれている。後世の講談や演劇の種本となる。

◆黒田騒動
2代藩主・忠之の代に起こった御家騒動。寛永9年(1632年)、筆頭家老の栗山大膳が、忠之謀反の疑いありと幕府に訴え出た事件。真相は、忠之の暴政を糺すために敢えて大膳が訴えたとされる。藩は一旦召し上げられ後に新たに同地を与えるとの裁断で決着、大膳も破格の待遇で追放の処分されるなど穏便な形で終わる。ただし地元福岡では大膳は大悪人として扱われている。

◆黒田忠之
1602-1654。福岡藩2代藩主。父の長政からは藩主の器ではないとされ、廃嫡の可能性もあった。父祖以来の家臣を冷遇して新たな近臣を厚遇、幕命に背いて造船するなどの暴政をおこなう。黒田騒動を経て藩政は落ち着くが、暗君の評が高い。

◆城井鎮房
1536-1588。豊後国城井谷の領主。豊臣秀吉の九州攻めの際に帰順するが、父祖伝来の地より転封を命じられて抵抗。収拾にあたった黒田孝高は力攻めで大敗を喫したために、謀略により暗殺し、城井一族をことごとく滅ぼした。その後、黒田家は城井一族の祟りを怖れ、多くの寺社を建立している。

◆合元寺
空誉上人が再興。黒田孝高による城井鎮房謀殺の際、城井家臣はこの寺に留め置かれ、直後に全員討ち取られた。城井家と縁深い寺院の住職を務めたことから、空誉上人が城井鎮房の庶子であるという噂が広まったものと推察される。

アクセス:福岡県福岡市中央区大手門