夜泣き石(国府台)
【よなきいし(こうのだい)】
永禄7年(1564年)に起こった第二次国府台合戦は、北条氏と里見氏が激突し、多数の犠牲を出したとされる戦いである。前日に北条の先鋒を撃破した里見軍は、その夜は酒をふるまい軍装を解いていた。そこへ夜襲を仕掛けた北条主力によって里見軍は総崩れとなり、当主の里見義弘の馬が矢傷を受けて辛うじて逃げおおせたほどであり、親族・重臣を含む5000ものの戦死者が出たとされる。対して北条側も前日からの戦いで3000近い兵を失っており、戦国時代でも有数の激戦であった。
この戦いで討死した将の一人、里見広次(当主義弘の弟・忠弘の子)には一人娘があった。その時まだ12歳ほどの娘であった。父の戦死を聞いて駆けつけたところ、戦場はまさに死屍累々の状況。幼い姫にはあまりにも惨い光景であった。その無残な様子を見た姫は、大きな石にもたれかかり泣き続け、そして亡くなってしまったのである。
それ以降、夜になるとこの石から少女のむせび泣く声が聞こえるようになった。さらに年月が過ぎて、ある侍がこの話を聞いて供養をおこなったところ、それからは泣き声を出さなくなったと言われている。
現在、この夜泣き石は里見公園内にあるが、この公園はかつての国府台城跡である。この城は前方後円墳を土台にして築かれており、現在でも公園の最も高い高台部分には“明戸古墳”と呼ばれる古墳から出土した石棺が置かれている。かつてこの石棺こそが里見広次の葬った跡であるとされ、夜泣き石もこの石棺のそばにあったとされる(今の夜泣き石の台座となっている平石は、実はこの石棺の蓋石である)。現在は夜泣き石はそこから移動し、文政12年(1829年)に建立された“里見軍将士亡霊の碑”に隣接するように置かれている。ちなみに三基並ぶ碑であるが、左から“里見諸士群亡塚”、“里見諸将霊墓”、“里見広次公廟”となっている。
<用語解説>
◆里見広次(弘次)
?-1564。当時の当主である里見義弘(1530-1578)の甥にあたる。この国府台合戦が初陣であり、その時15歳であったとされる。またかなりの美少年であり、討ち取った北条方の松田康吉はその死を悼んで最終的に出家したとも伝わる。
史実に基づけば15歳の少年に12歳の娘がいることは不可能であり、おそらく後日城跡から石棺が出土し、そこに葬られるに相応しい身分の者として広次が挙げられ、夜泣き石の伝説に組み込まれたと見るべきであろう。
アクセス:千葉県市川市国府台