六ツ塚

【むっつつか】

“坂東武士の鑑”と謳われた畠山重忠は、鎌倉幕府草創期の有力御家人として活躍し、清廉高潔の人物として同時代の御家人達からも敬われる存在であった。しかし、そのような武人の最期は悲劇的であった。

元久2年(1205年)、重忠は「鎌倉に異変あり、急ぎ参上せよ」との命を受け、取るものも取りあえず134騎という小勢で駆けつけようとした。しかしそれは重忠謀反という虚偽によって仕掛けられた罠であった。二俣川(現・横浜市旭区)で重忠は、数千とも一万ともいわれる討伐軍と遭遇し、自らに謀反の疑いが掛けられ誅殺されようとしていることを悟る。家臣も一旦本拠地に引き返し、軍備を整えて一戦を交えようと進言する。だが重忠は「ここで本拠に戻って兵を出せば、やはり謀反の疑いは真実であったと言われるであろう」とその場に踏みとどまり、134騎全員が討ち死にしたのである。

この畠山重忠終焉の地である鶴ヶ峰周辺には、多くの史跡が残されている。中でも重忠以下134名の遺骸を葬り埋めたとされるのが、薬王寺の敷地内にある六ツ塚である。塚と言っても、少し大きく盛り土されたものが6つ点在するだけである。しかし逆に、これらが崩されることなく残されているのは、それだけ畠山重忠という人物に対する崇敬の念が強い証左でもあると言えるだろう。

今では薬王寺の境内にあるように見える六ツ塚であるが、実際はその逆で、六ツ塚のそばに畠山重忠顕彰のために霊堂建設運動が起こり、昭和3年(1928年)に廃寺であった薬王寺がこの地に移設されたのである。この運動を主導したのは栗原勇。元陸軍大佐で、この時期は既に退役して出家をしていた。畠山重忠に武士道精神の理想を見出し、顕彰しようとしたのだという。戦後、薬王寺はコンクリート造りの建物となったが、いまだに重忠公の位牌を祀り、6つの塚の保存と慰霊に勤めている。

<用語解説>
◆畠山重忠
1165-1205。知勇兼備の武将として名高く、また生前より清廉の人格者として尊敬を集めていた。そのため後世に至り、歌舞伎の演目でも主人公を助ける善人役としてその名が登場し、人気を博した。一方で、武蔵国を拠点とする御家人のリーダーとして幕府内でも力を持っており、これが北条氏との利害関係に及び、最終的に非業の死を招くこととなったとされる。

◆謀殺の背景と結果
武蔵国の支配権をめぐる、北条氏と畠山氏の利害関係の対立が大きな原因であるとされている。特に北条時政の後妻・牧の方の娘婿が武蔵国の国司であったため、時政と牧の方が主導で重忠排除を画策したともされる。重忠亡き後は武蔵国は北条氏の支配下に置かれたが、それと同時に謀殺を口実にして時政と牧の方は、息子の義時(そしてその姉の政子)によって政権の座から引きずり下ろされる。これも重忠が人格者であった故に、他の御家人の恨みを買うことを怖れたためであると言われる。

◆栗原勇
元陸軍大佐。『武蔵戦記』『日本戦史研究録』『青少年軍事訓練教程』などの著書がある。また畠山重忠霊堂や横浜の愛国寺建設にも携わる。二・二六事件の首謀者の一人、栗原安秀は実子。そのため賢崇寺にある「二十二士之墓」創設にも尽力している。

アクセス:神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰本町