お玉ヶ池

【おたまがいけ】

近世の箱根と切っても切れないものは“関所”である。旧東海道である県道732号線の途上にあるお玉ヶ池も、この関所にまつわる伝説の地である。

元禄15年(1702年)2月、関所破りの罪で一人の少女が捕らわれた。伊豆国大瀬村の百姓の娘で玉という名であった。江戸に奉公に上がっていたのであるが、家恋しさに店を抜け出し、通行手形もないままに箱根まで来たのである。そして関所の裏山を抜けていこうとしたところを役人に見つかり、牢に繋がれたのである。

2ヶ月の吟味の後に下された処分は、打ち首獄門。お玉は捕らえられた場所で斬首となった。街道から外れた裏山に入ったところの坂道であった。これを哀れに思った村人は、獄門に晒されたお玉の首をこの池で洗ったという(あるいはこの池のほとりに獄門に晒されたとも)。それ以来いつしか“薺(なずな)ヶ池”という名が“お玉ヶ池”と呼ばれるようになった。そして処刑された坂道も“お玉ヶ坂”となったという。

また一説では、京の旅芸人であった二人の少女が、親方嫌さに一座から逃げ出したが、旅芸人は手形がなくとも芸を披露するだけで通行できることを知らず、関所を破ってしまった。役人の追っ手を撒こうとしたが、結局逃げ切れず、二人はこの池に身を投げて死んだという。この旅芸人の名がお玉であったと伝わる。

<用語解説>
◆箱根関所
元和5年(1619年)から明治2年(1869年)まで江戸幕府によって設置された関所。“入鉄砲出女”に象徴される、厳格な取り締まりがおこなわれ、掟を破った者(関所破り)は重罪として磔獄門に処せられると定められた。
ただし実際には、役人に取り入って見逃してもらったり、また“藪入り”と言って道に迷ったとして寛大な処分を施したりして、極力処刑はおこなわないようにしていたとされる。記録によると、箱根での関所破りは元和から明治の間でわずか5件(6名)のみであった。お玉が磔獄門ではなく一等軽い処罰である打ち首獄門となったのは、偶然の不幸が重なって処罰に至ったという“配慮”を感じるところである。

アクセス:神奈川県足柄下郡箱根町元箱根