興国寺

【こうこくじ】

興国寺は、鎌倉幕府3代将軍・源実朝の近臣であった葛山五郎景倫が安貞元年(1227年)に実朝の菩提を弔うために建立した西方寺より始まる。

景倫は、実朝暗殺の後に高野山で出家し、名を願性と改めた。そして同じ近臣であった鹿跡二郎が掘り出したという主君の頭骨を預かり、供養に勤めていた。その忠義を聞いた実朝の実母・北条政子から由良の地頭職を賜り、寺院を建立したのであった。

願性は、宋の雁蕩山に埋葬して欲しいという主君の生前の願いを叶えるため、高野山金剛三昧院で知り合った心地覚心の渡宋を援助し、分骨を依頼した。さらに正嘉2年(1258年)には、宋より帰国した覚心を開山として寺に招いた。

覚心は宋において禅を学んだが、同時に副産物を日本にもたらし、それらは興国寺を通じて全国に広まっていったのである。1つは金山寺味噌と、その製造過程から出る水分を精製することで作られた醤油。もう1つは普化宗と尺八である。この由良の地は醤油発祥の地とされており、また普化尺八を継ぐ者はこの興国寺で受戒する決まりとなっている。

天正13年(1585年)、興国寺は豊臣秀吉の紀伊攻めの中で伽藍の大半を焼失する。それを再建したのは関ヶ原の戦い後に紀州を領した浅野幸長であるが、不思議な伝承が残されている。興国寺再建のために全国各地に寺僧が勧進して回ったのであるが、その中の一人が赤城山の天狗と出会い、その強い志を知った天狗達が一夜にして堂宇を再建したというのである。この伝説から、興国寺境内には天狗堂があり、巨大な天狗の面が安置されている。

<用語解説>
◆源実朝
1192-1219。鎌倉幕府3代将軍。兄の頼家の追放により、12歳で将軍となる。和歌や蹴鞠などの京風の文化を愛した。やがて政治的に京都の朝廷と鎌倉の御家人の圧力の板挟みとなって、厭世的となる。右大臣拝賀のために訪れた鶴岡八幡宮で、甥の公暁によって暗殺される。
実朝の宋への想いは、健保4年(1216年)に宋の工人・陳和卿と対面した時、陳から実朝の前世が医王山の長老であるとの発言があり、それを真に受けた(実朝自身が体験した夢告と内容が一致していたと言われる)ことから急速に膨らんだとされる。実際、実朝は渡宋を決意し、陳に対して唐船を建造させている(最終的に船は海に浮かべられずに朽ち果てている)。

◆願性
?-1276。俗名は葛山景倫。源実朝の近習であり、実朝の宋への渡航を実現させるために博多にあった時に、実朝暗殺の報を聞く。その足で高野山に上り、出家。実朝の菩提を弔い、北条政子より由良荘の地頭職を任ぜられる。由良の地に西方寺(後の興国寺)を建立する。

◆心地覚心
1207-1298。臨済宗の僧。高野山の金剛三昧院で退耕行勇に師事。建長元年(1249年)に宋へ渡り、6年間各地で修行する。正嘉2年(1258年)以降は由良西方寺の住職。亀山上皇の帰依を受け、法燈禅師の法号を授かる。

◆金山寺味噌
心地覚心が宋より帰朝した際にもたらした食品。大豆、大麦に刻んだ野菜を合わせて熟成させたもの。「径山寺」と表記する(径山寺は覚心が宋滞在中に参詣した寺院)。この味噌を製造する過程で出てくる水分をもとに作られたのが醤油の始まりとされ、湯浅が発祥の地とされる。

◆普化宗
唐の時代の禅僧・普化和尚を開祖とする禅宗の一派。心地覚心が帰朝の際に伴ってきた4名の居士によって日本にもたらされた。そして興国寺内に普化庵が設けられ、ここを起点に広まっていった(このため、日本における普化宗の元祖は覚心とされている)。普化宗は尺八を法器とみなし、江戸時代になると幕府の認可を受けて虚無僧が活動する。明治時代になると、幕府との繋がりのために普化宗は解体されてしまう。

◆浅野幸長
1576-1613。父は豊臣時代の五奉行の一人、浅野長政。関ヶ原の戦いでは、石田三成憎しで東軍に属す。加藤清正と共に関ヶ原以降も豊臣秀頼への忠誠を尽くしていたため、死去の際は毒殺との噂も流れた。浅野家は元和5年、2代藩主・長晟の時に和歌山から広島へ転封となる。

アクセス:和歌山県日高郡由良町門前