銭形砂絵

【ぜにがたすなえ】

観音寺市のシンボルマークとも言える、“寛永通宝”を模した巨大な砂のオブジェである。東西に122m、南北に90m、そして周囲の長さが345mという大きさで、隣にある琴弾山の展望台から眺めるとちょうど真円に見えるようになっているという。ところが、これほど有名で巨大な存在であるにもかかわらず、その由来が謎に包まれているのである。

最も人口に膾炙されている話は、讃岐国主の生駒高俊がこの地を巡見に来ることを聞いた人々が、歓迎の意を込めて一夜にして造り上げたというものである。展望台にもこの旨が書かれた説明板があるが、生駒高俊がこの地を訪れた寛永10年(1633年)には、まだ肝心の寛永通宝の鋳造は始まっておらず、話に矛盾が生じる(寛永通宝の鋳造は寛永13年の出来事である)。一説では、高俊の来訪時には寛永通宝ではなく、豊臣家の象徴である“ひょうたん”が造り上げられていたが、その後、生駒家が改易されたため、幕府に憚って現在の寛永通宝に替えられたという。

また別の由来では、幕末期にこの浜に海防策として砲台を築いたが、この巡見に訪れた丸亀藩主・京極朗徹をもてなすために普請奉行が命じて造らせたと言われる。近世の幕藩体制下にあるにもかかわらず造営の記録もなく、しかも2つの由来話が約200年もずれているというのも不思議な話であるが、とにかく殿様を楽しませるために人々がこしらえたものであることは間違いないようである。

現在も半年に一度“砂ざらえ”と称して、定期的に市民が補修に参加してこの銭形砂絵を保存維持しており、台風があった後などには臨時の補修もおこなわれている。また最近ではこの銭形砂絵の画像を持っていると金運に恵まれるとも言われ、ライトアップも実施されるなど人気の観光スポットとなっている。

<用語解説>
◆生駒高俊
1611-1652。生駒家は豊臣秀吉の家臣で、四国平定後の天正15年(1587年)に生駒親正が讃岐国一国を領し、江戸幕府成立後も引き続き国持大名として讃岐を治めた。高俊は生駒家4代目当主。幼少より藩主となったため重臣が力を持ち、さらに高俊自身も惰弱であったためにお家騒動(生駒騒動)が起こり、寛永17年(1640年)に改易となる。その後は出羽国由利郡矢島で1万石を領するが、その子以降は分地のため8000石旗本交代寄合として存続した。

◆京極朗徹
1828-1882。丸亀藩第7代藩主。嘉永3年(1850年)より藩主となり、さまざまな政治改革をおこなう。幕末期は一貫して尊王攘夷派として行動、明治になると他藩に先駆けて版籍奉還や廃藩置県を実施した。

アクセス:香川県観音寺市有明町