三日月神社

【みかづきじんじゃ】

都農町の最南端、国道10号線と名貫川が交わるあたりにあるのが三日月神社である。この神社の御神体“三日月様”には不思議な伝説が残っている。

江戸時代、この地を治めていたのは高鍋藩・秋月氏である。この何代目かの藩主がある時、領内にある日向国一之宮・都農神社を参詣した。藩主を乗せた駕籠は高鍋の城下から神社へしずしずと向かう途中、名貫川を渡ることとなる。しかし往来のある街道ではあるが、この川には橋が架かっておらず、たとえ大名のお成りであっても川中に置かれた飛び石を伝って渡らねばならなかった。この日もいつものように足軽が駕籠を担いでそろそろと渡河を始めた。ところが、中程まで来た時に、駕籠の担ぎ棒の先頭で担いでいた足軽が飛び石の上で突然足を滑らせて転倒、駕籠に乗っていた藩主は投げ出されてびしょ濡れとなった。この時、藩主は寛容な態度を見せて足軽を許し、再び駕籠に乗って参詣を続けたのである。

参拝を終え、再び駕籠は名貫川に差し掛かった。粗相した足軽は勿論細心の注意を払って、飛び石を渡りだした。ところが同じ飛び石に足を掛けた瞬間にまたしても体勢を崩してしまい、再び藩主は川に投げ出されてしまったのである。さすがに二度の失態は許されず、足軽はその場で手討ちと処断された。そしてまさに斬られようとする直前、足軽は「最後にその置き石を改めていただきたい」と訴えた。最後の願いを聞き届けた藩主が命じて石を検分したところ、この石にくっきりと三日月の文様が浮かび出ていた。この日はまさに三日月の出る日であり、そこに畏怖を覚えた藩主は直ちに足軽の罪を許し、この置き石を社に祀ったのである。

<用語解説>
◆高鍋藩
豊臣秀吉の九州平定後に筑前の小大名・秋月種長が3万石で移封、その後関ヶ原の戦いで所領安堵されて立藩した。以後明治維新に至るまで秋月氏が治めた。

◆都農神社
日向国一之宮。創建は神武天皇東征前とされ、古来より崇敬を集めていた。しかし戦国時代に大友氏と島津氏の戦乱によって荒廃、長く衰微した状態であった。元禄5年(1692年)に高鍋藩4代藩主・秋月種政が再建し、以後歴代藩主の庇護を受けた。このことから、三日月神社の創建は18世紀以降であると考えられる。

アクセス:宮崎県児湯郡都農町川北