煙島

【けむりじま】

淡路島の南端にある福良港は、鳴門海峡に面しながら奥に入り込んでいるため、天然の良港として知られる。この入り込んだ湾内に2つの島がある。そのうち岸壁から約150mほど沖にお椀を伏せたような形の小島がある。これが煙島である。

手が届きそうなほど近くにある島であるが、定期的に通う船もなく、それどころか上陸のためには許可が必要となる。むしろ古来より立ち入りが非常に制限された禁足地であると言った方が正しい。

寿永3年(1184年)の一ノ谷の合戦で大敗した平家は、本拠地である四国の屋島へ舟を使って総退却した。その船団の一部がこの福良港に寄港したという。その中に平清盛の異母弟となる平経盛がいた。経盛はこの一の谷で3人の息子を同時に失っていた。その傷心の中、経盛の末子・敦盛の首級が送り届けられたのである。こうして最期の対面を果たした首級は、湾内にある小島で荼毘に付された後、頂上に埋められ塚が建てられた。敦盛の首級を荼毘に付し、島から煙が立ち上ったことから“煙島”と名が付けられたこの島は、それ以降敦盛の首塚が存在する故に、禁足地とされるようになったのである。

まことしやかな噂として、この首塚に触れると祟りに見舞われるという。またその他にも、上陸の際には必ず首塚にお供え物を用意していかなければならないとしている。それを怠ると怪我や病気をすると今なお言い伝えられて守られている。

<用語解説>
◆一ノ谷の合戦
木曽義仲の没落によって勢力を取り戻した平家が福原にまで進出、源範頼・義経の率いる鎌倉勢と摂津の福原・生田・須磨などで繰り広げた合戦。10万を超える兵が拮抗して戦うも、義経の奇襲により平家の軍勢は総崩れとなり、源氏が勝利する。この戦いで平家は多くの有力武将を失い、大幅な戦力低下を余儀なくされた。

◆平敦盛
1169-1184。従五位下に叙せられるが官職につかなかったため、無官大夫と呼ばれた。笛の名手とされ、愛用の青葉の笛は、祖父の平忠盛が鳥羽院より下賜されたものである。この一ノ谷の合戦が初陣であった。

◆平経盛
1124-1185。平忠盛の三男。武人・政治家としてよりも歌人としての才に恵まれていたと言われる。平家の都落ちに同道。一ノ谷の合戦では経正・経俊・敦盛の三人の息子を失っている。最期は壇ノ浦の合戦で入水。

アクセス:兵庫県南あわじ市福良湾内