原見坂

【はらみざか】

市街地の高台にある住宅地の中にある坂である。今でこそ何の特徴もない坂であるが、かつてはここから紀伊一之宮の日前宮が見下ろせる景観が広がっていたと言われる。『紀伊国名所図会』の初編一之巻上には、この坂にまつわる怪異譚が記されている。

浅野家が紀伊にあった頃の話。渋谷文治郎という23になる家中の若侍が、この坂のあたりの茅原の中に2基の五輪塔を見つけた。何気に花を手向け、その五輪塔に手を合わせた。

数日後、また原見坂を馬で通りがかった時、一人の若い侍女に呼び止められる。侍女は文箱を手にし、姫様より預かった文と文治郎に差し出した。心当たりはないが受け取ると、その文には4月16日の夜にこの坂に必ず来て欲しいと書かれてあった。

その当日、律儀な文治郎は約束なのでと、下僕の儀助を伴って坂を訪れた。すると一人の老人が待っており、別の場所に案内され立派な屋敷に入った。そこには数々の酒肴が用意され、美しい姫が一人待っていた。打ち解けて話すうちに文治郎は姫と一夜を共にすることになった。そして下僕の儀助も侍女と懇ろの間となったのである。

それから夜な夜な文治郎は儀助と共に原見坂へ行き、姫の屋敷を訪れるようになった。この行状はすぐに家の者に知れてしまう。父親は家臣に言いつけて、外に出て行く文治郎の後を付けさせた。原見坂あたりまで文治郎らは来ると、不意に道をはずれて茅原に向かう。慌てた家臣が追うと、二人の姿がまさに茅原に吸い込まれるように消えていく瞬間であった。急ぎ戻った家臣の注進で、父親は狐狸にたぶらかされていると確信すると、次の日から文治郎に自宅を出ないよう厳命したのである。

だが、文治郎は姫のことが忘れられなかった。そして監視の目をかいくぐって再び夜の原見坂に赴き、姫の屋敷を訪れたのである。

「もはや会えぬと思っておりました」とさめざめ泣く姫は、自らの正体を語り出した。姫は既にこの世のものではなく、文明12年(1480年)4月16日に亡くなった、畠山尾張守の娘の仙之前という者の霊であった。細川勝元の次男・右衛門佐政行に嫁ぐ直前に急の病で亡くなり、この場所に葬られた。実は文治郎こそがその右衛門佐政行の生まれ変わりであり、たまたま花を手向けて手を合わせてくれたことで、かつての未練から執心が起こり、こうして世に再び現れて契りを結んだのであると。そして殉死した侍女の小侍従に縁の深かった儀助も同じように契りを結ぶことになったのであるとも語った。

「父君に知られてしまったからには、今生でお会いするのはこれが最後。名残惜しゅうございますが、叶うならば再び回向をお願いいたします」。仙之前はそう言うや、文治郎の前から掻き消すように姿を消した。そして小侍従も屋敷も何もかもが消え去り、気が付くと原見坂に立ち尽くしているばかりであった。

その後、2基の五輪塔の下が掘り返され、仙之前と小侍従の名や命日などが書かれた唐櫃が見つかった。そして掘り返された遺骨は、畠山氏ゆかりの興国寺に改葬されたという。

<用語解説>
◆『紀伊国名所図会』
和歌山城下の帯屋伊兵衛(高市志友:1752-1823)が編述。初編は文化9年(1812年)に刊行。最終刊は嘉永4年(1851年)となっている。江戸期の和歌山の地誌としては一級の資料となる。

◆浅野氏の紀伊統治
関ヶ原の戦い(1600年)の功により浅野幸長が領有する。その後、元和5年(1619年)に広島に移封となるまでの間、和歌山を統治している。上の伝説はその間に起きたものと考えられる。

◆畠山尾張守
畠山政長(1442-1493)のこと。畠山氏は室町幕府の三管領家で、河内・山城・紀伊・越中の守護職にある大名であったが、政長はその家督争いを起こし、応仁の乱の直接的原因をつくった。その後、河内を奪われ、山城を国一揆によって支配権を失うなど、勢力を落としながらも管領に復帰するなど、政権の中央で生涯戦い続けた。最後は河内の争奪戦の際に味方の裏切りに遭い、自害。
子に関しては長男のみ記録に残り、仙之前を始めとする女子の消息は分からない。ただ上の伝承では、仙之前は命日と共に享年20とされており、1459年頃の生まれと考えられるので、実在の可能性は少なからずある。

◆細川勝元
1430-1473。三管領家細川氏の当主。長年管領を務め、幕府の実力者として権勢を誇った。畠山政長を支持して応仁の乱を引き起こし、東軍の主軸として西軍の山名宗全らと争う。
子は長男の政元(1466-1507)がいるが、それ以下の男子は記録にない。仮に次男として政行が存在しても、年齢的には1466年以降の生まれとなるため、仙之前との年齢的な問題が生じることになる。

アクセス:和歌山県和歌山市鷹匠町5丁目