お綱門

【おつなもん】

福岡城は黒田藩52万石(後に43万石)の居城である。現在は城跡のみが残る史跡であるが、かつてそこに「お綱門」と呼ばれた曰く付きの門があった。触ると熱病になると言われ、ここで藩士の妻であるお綱が怨みを持って亡くなったという伝説がある。

2代目藩主・忠之が参勤交代の折、大阪で采女という芸妓を寵愛して福岡まで連れて帰った。しかし家老にたしなめられて、近臣の浅野四郎左衛門に第二夫人にするよう下げ渡した。その美貌から四郎左衛門は采女にのめり込み、正妻のお綱とその二人の子供を下屋敷に置いたまま、顧みなくなった。やがて生活にも窮するようになったお綱はせめて子供の節句の支度にと、采女の許に下男を送るが相手にしてもらえず、下男はそれを苦に首を吊ってしまった。

この出来事でお綱は狂乱。二人の子供を殺し、その首を腰にぶら下げると、白装束に薙刀のいでたちで四郎左衛門のいる屋敷へ決死の駆け込み。しかし四郎左衛門は登城して不在、逆に寄宿していた浪人の明石彦五郎に斬られてしまう。せめて一太刀浴びせたいと、お綱は息も絶え絶えに城に入り込むが、門に手を掛けたまま絶命してしまう。寛永7年(1630年)の桃の節句の日であったとされる。そしてその門がお綱門と呼ばれるようになった次第である。

四郎左衛門は直後から熱病に罹り、約1年後に病死。明石も、お綱の亡霊から聞きだして発見した刀が黒田藩紛失の家宝であったために、酷い拷問を受けて刑死したという。またお綱が襲撃した浅野家の屋敷は「凶宅」とされて、長宮院という寺院が建立されるまでは放置されていた。そしてお綱の住んでいた下屋敷一帯(馬出)は近年まで大火に見舞われることが多く、お綱の祟りと言われて、その哀れな母子の墓を建立したほどである。その他にも、お綱門近くの草木を持ち帰ると祟りがあるなど、お綱さんの祟り話は福岡の町ではまことしやかな噂として語り継がれている。

現在、お綱門と呼ばれた門は存在しない。明治維新後、福岡城が解体された時に、門は前述の長宮院に納められたといい、その後の空襲によって焼け落ちたらしい(長宮院跡は、現在の福岡家庭裁判所となっている)。そして今では、お綱門がどの門を指していたかも不明である。福岡城の東御門がそれという説もあれば、その奥にあった扇坂御門こそがとも言われる。さらにはその2つの門の間に別の門があったという証言もある。

<用語解説>
◆黒田忠之
1602-1654。黒田長政の長男。黒田藩2代藩主。父の長政が廃嫡を考えたほどの暗愚とされ(性格的に太守の器ではないと判断されていたようである)、実際、廃藩の危機もあった黒田騒動も治世中に起きている。お綱さんの祟りをはじめ、忠之が絡む怪異伝承は複数あり、ある意味、黒田藩の闇歴史の影の主役とも言うべき人物である。

アクセス:福岡県福岡市中央区城内