唐松神社

【からまつじんじゃ】

古代史の異説を書いた書物として、『物部文書』という文書の一部が昭和58年(1983年)に初公開された。この文書を一子相伝として代々受け継いできたのが唐松神社の宮司家である物部氏であり、この文書は出羽の地に移った物部氏に関する来歴をはじめ、唐松神社創建にまつわる由来が書かれている。

唐松神社にまつわる伝承で最も古い内容は、物部氏の祖神である饒速日命が秋田と山形の県境にある鳥海山に天磐船に乗って降臨、さらにそこから唐松岳(現在の唐松神社の隣接地)の頂上に“日の宮”を建て、持参した“十種の神宝”を収めたというもの。つまり神武東征よりも前の神代の伝説が残されている。

次に登場するのは、神功皇后とその臣である物部膽咋(饒速日命から数えて9代目)である。三韓征伐の凱旋時にこの地に寄った神功皇后は唐松岳の“日の宮”に参詣、さらに膽咋は神功皇后より下賜された腹帯を奉納し、「韓(から)国を服(まつ)ろわせた」という意を含んだ“韓服”神社を建てたとされる。

そして宮司家の直接の祖先となる物部那加世が、父の物部守屋が敗死した直後、捕鳥男速に匿われてこの地へやって来たのが用明天皇2年(587年)のことである。当地へたどり着いた時、櫃が動かなくなったため、土地の者から神功皇后の由来を聞いて社殿を修復した。これ以来、物部氏はこのあたりに定住したという(実際には天元5年(982年)に物部氏第24代・長文の時に唐松岳に定住し、社殿を建立したことになっている)。その後、源義家が前九年の役の際に、唐松神社の神の化身に助けられたため、社殿を再建して神殿を寄進したという記録も残されている。

時代が下り、延宝8年(1680年)に唐松岳の頂上にあった社殿を現在地に遷したのが、久保田藩3代藩主の佐竹義処である。この時、義処は神社の前を下馬しなかったために神罰として落馬した。これに怒った義処は社殿を窪地に当たる土地の底部に建てた(さらに神罰が下って再度落馬するなどしたらしい)。現在でも唐松神社の拝殿は、他の神社とは異なり、一段低い窪地に置かれているが、古来からの伝承に関連するものではないようである。

また御神体が神功皇后の腹帯とされることから、唐松神社は安産のご利益のある神社として有名である。特に、娘の難産を見かねて祈願したところ無事に男児が生まれたことを喜んだ佐竹義処が「女一代守神」に指定したとの伝説があり、参拝者が近県だけではなく全国から安産祈願に訪れるという。

さらに境内にあるのが、他に類を見ない建造物として知られる“天日宮(あめひのみや)”である。周囲に濠を巡らせた中央に直径20mの石積みががあり、その上に社殿が置かれている。これは唐松神社の宮司家である物部氏の邸内社であり、饒速日命が祀られている。一説では『物部文書』に記された様式の建造物を忠実に再現したものであるとされている。文書の真偽を度外視して、このような不思議な建造物を目の当たりにすると、この土地に実際何かがあったのではないかという気にさせられる。

<用語解説> 
◆饒速日命
『日本書紀』などでは、天孫降臨に先立ち、天照大神より“十種の神宝”を授かり、天磐船に乗って河内国に降臨したとされる神。神武東征に抵抗した長髄彦の妹婿であったが、神武に味方して長髄彦を討ち取った。『物部文書』でも、唐松岳に社殿を建てた後、畿内へ行き神武に協力したとされる。

◆物部膽咋
仲哀天皇が崩御した後、神功皇后がその死を秘匿することを告げた4人の臣下の一人として『日本書紀』に登場する。

◆物部守屋
仏教を巡る対立から蘇我氏と敵対し、用明天皇2年(587年)に敗死した。守屋の子息については具体的な記録は残されていないが、敗死後に各地に潜伏した可能性はある。ただし那加世の実在性は全く不明である。

◆佐竹義処
1637-1703。久保田(秋田)藩第3代藩主。寛文12年(1672年)に藩主となる。義処が安産祈願した娘は、秋月藩黒田長軌に嫁いだ久姫とされているが、長軌は実子がなく養嗣子が跡目を継いでいることから、伝承は非常に疑わしい。さらに久姫以外で20歳を越えて存命だった女子は、久姫の同母姉の岩姫のみであるが、こちらも男児出産の記録は残っていない。

アクセス:秋田県大仙市協和境