志賀の七不思議
【しがのななふしぎ】
舞鶴市と福知山市に接する綾部市の北西部に“志賀郷”地区がある。典型的な田舎の農村地帯と言うべき土地であるが、ここに古くから「志賀の七不思議」と呼ばれる伝説が残されている。
第33代崇峻天皇の御代、麻呂子皇子(志賀郷の伝説では“金丸親王”と称す)が丹後にあった鬼を退治したが、そのお礼参りとして志賀郷では5つの神社を篤く崇敬した。すなわち藤波神社・阿須須伎神社・篠田神社・若宮神社・諏訪神社である。さらに時代を経て、麻呂子皇子の子孫に当たる金里宰相もこの5社を崇敬し、千日詣をおこない、その成就を祝してそれぞれの神社に5種類の植物を植えた。そしてこれらの植物が成長して奇瑞を起こしたことで、七不思議の伝説となったのである。
藤波神社に植えられたのは「藤」であり、この木は毎年正月元旦五つ半時(午前9時頃)になると、白い花を一斉に咲かせる。この不思議な花は新調された木箱に収められ、毎年京の朝廷に献上されたという。ところが正安元年(1299年)の正月、献上の使者が園部の水戸峠で箱を開けてしまったところ、白藤の花が1羽の白鷺となって空に飛び去ってしまった。それ以来、正月元旦に白藤の花が咲くことはなくなってしまったという。
阿須須伎神社に植えられたのは「茗荷」であり、毎年正月3日日の出から五つ時(午前8時頃)にかけて茗荷が生え、その生え具合からその年の稲の豊凶や天候を占う。この行事は今でも続けられており、現在は2月3日にこの占い神事がおこなわれ、刈り取られた3本の茗荷が神前に供えられる。
篠田神社に植えられたのは「竹」であり、毎年正月4日日の出から五つ時(午前8時)にかけて筍が生え、その生え具合からその年の稲の豊凶やその他の作物の出来ばえを占う。この行事は今でも続けられており、現在は2月4日にこの占い神事がおこなわれ、掘り出された3本の筍が神前に供えられる。
若宮神社に植えられたのは「萩」であり、この木は毎年正月5日になると白い花を一斉に咲かせ、その花の多寡からその年の耕作の吉凶を占う神事が執りおこなわれ、花は神前に供えられた。しかし藤の花が絶えた後いつの間にか花は咲かなくなり、占い神事もおこなわれなくなったという。
諏訪神社に植えられたのは「柿」であり、この木は毎年正月6日になると、朝に花が咲いて3つの実を結び、日中には熟す。この不思議な柿の実は御用柿と呼ばれて木箱に収められ、毎年京の朝廷に献上されたという。ところが正和元年(1312年)の正月、献上飛脚が運んでいる最中の須知で茶を飲んだところ腹痛を起こして大騒ぎとなっているうちに、箱が空高く北の方へ飛び去ってしまった。それ以来、正月6日に柿の実が成ることはなくなってしまったという。
この5つの神社の奇瑞に加えて、向田の松林にある2本の松にまつわる不思議が七不思議として数えられるようになった。
1つは「しずく松」と言われ、雨もないのに夜明け前になると松葉にしずくが溜まり落ちてくるという不思議。このしずくの様子でその年の水害や干害を占い、耕作の工夫をしたとされる。初代の木は福知山城の用材として明智光秀によって伐られたとされ、今ではその松の皮が残されている。
もう1つは「ゆるぎ松」と言われ、風もないのに松の木が揺れるという不思議。松の木の上方が揺れると都に吉事が起こり、下方が揺れると都に凶事が起こるとされ、同様にこの志賀郷にも変事が起こったとされた。特に金里宰相から3代の頃はよく揺らいだとされ、この吉凶の予測は都まで報告された。初代の木は福知山城の用材として明智光秀によって伐られたとされる。
余所の“七不思議”と呼ばれるものとは趣が異なり、様式化された言い伝えとなっている。そこには農業にいそしむ人々の豊作を願う心であったり、この土地が朝廷と密接な関わりを持っていた名残であったり、その関わりが室町期に入って大きく崩れて(七不思議のいくつかが途絶えたのが鎌倉時代末期であることから類推できる)、この頃この地に土着した志賀氏に支配権が移っていったことが伺える内容となっている。
現在では、存続する2つの神事(茗荷祭・筍祭)だけではなく、残りの5つの不思議も所縁の場所に形あるものとして置かれ、この志賀郷エリアの地域活性化の一助となっているようである。
<用語解説>
◆麻呂子皇子
第31代用明天皇の第3皇子である当麻皇子の別名(聖徳太子の異母弟にあたる)。伝説では丹後あるいは丹波で3匹の鬼を退治したとされ、各地に伝説が残る(酒呑童子の大江山もその1つに数えられる)。麻呂子皇子の子孫は当麻氏を名乗り朝廷に仕えているが、宰相(参議)となった者がいたかは不詳。
◆志賀氏
志賀郷は中世には吾雀(あすすぎ)庄と呼ばれ、後白河院が新熊野神社に寄進した荘園の1つであった。そこへ応永25年(1418年)に信濃から諏訪頼宗が入部して志賀姓を名乗るようになった。その後志賀氏は一帯に土着し、頼宗直系とされる子孫は北野(志賀)城主として明智光秀と戦うも、降伏して家臣となっている。そして山崎の合戦で当主が討死し、残された遺児もこの地から落ち延びて別の地で帰農している。明智光秀が福知山城を再建してわずか3年足らずの出来事であった。
アクセス:京都市綾部市西方町(藤波神社)
京都市綾部市金河内町(阿須須伎神社)
京都府綾部市篠田町(篠田神社)
京都府綾部市志賀郷町(若宮神社)
京都府綾部市仁和町(諏訪神社)
京都府綾部市向田町(しずく松・ゆるぎ松)