養源院 血天井

【ようげんいん ちてんじょう】

三十三間堂の東に道を挟んで隣接する寺院。現在は浄土真宗であるが、戦前までは天台宗の寺院であった。創建は文禄3年(1594年)。豊臣秀吉の側室・淀君が、父の浅井長政・祖父の浅井久政の二十一回忌供養のために建てたのが始まりである。養源院という名も、長政の院号から取られたものである。その後焼失するが、元和7年(1621年)に徳川秀忠の正室である崇源院(淀君の実妹)が再建する。浅井家の血を受け継ぐ娘が権力の中枢に位置したことによって造られた寺院であるのは、言うまでない事実である。そのため、崇源院による再興の後は徳川氏の菩提所となっている。

再建にあたって本堂として、伏見城の遺構が移築されている。それと共に持ってこられたのが“床板”である。伏見城は、慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原の戦いの前哨戦として、籠城する徳川勢が全員自刃して落城している。この時に自刃した鳥居元忠以下の将兵の血痕が染みついた床板を、供養のために本堂の天井板にしたのである。これが有名な“血天井”である。今なお、倒れた城兵達の姿がはっきりと血でかたどられている。また雨の日になるとより一層その血の跡が浮き出てくるという噂もある。

<用語解説>
◆鳥居元忠
1539-1600。徳川家康が今川の人質だった時代からの側近。伏見城の戦いでははじめから討死を覚悟しており、家康に対する忠勤ぶりは際立っていたとされる。

◆伏見城の戦い
上杉討伐のために徳川家康が不在となると、西軍の石田三成などが挙兵。4万の大軍で、伏見城から退去しない徳川方の守備隊1800を攻撃する。戦闘は約10日間続き、籠城方の妻子を捕縛して内応を強要してようやく落城させる。鳥居元忠以下の将兵約360名は、落城の際に自刃する。

アクセス:京都市東山区三十三間堂廻り町