椿寺

【つばきでら】

正式名称は昆陽山地蔵院。行基が摂津国の昆陽池(現:兵庫県伊丹市)のほとりに建立したのが始まりであり、平安期に衣笠山の付近に移転した。時代が下り、室町幕府3代将軍・足利義満が鹿苑寺に金閣を建立した余材をもって再建され、さらに豊臣秀吉によって現在地に移転された。

「椿寺」の通称であるが、これには豊臣秀吉が絡む。天正15年(1587年)に北野大茶会を開いた秀吉は、この時“五色八重散椿”という椿の名木を寄進した。そのため、後世に「椿寺」の名が付けられた。この名木であるが、その出自は加藤清正が朝鮮出兵の折に蔚山城より持ち帰ったものとされる。ただし、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は北野大茶会の5年後から始まっており、加藤清正が蔚山にあったのは慶長2年(1597年)以降なので、年代的には合わない(さらに言えば、加藤清正が蔚山から帰国した時には、既に秀吉は死去しており、ますます辻褄が合わなくなる)。この名木は昭和58年(1983年)に枯死し、現在は樹齢100年を超える2代目の散椿が植わっている。

地蔵院の名の通り、地蔵菩薩像が安置されている。行基作とされるが、別名「鍬形地蔵」と呼ばれる。

この大将軍村に庄兵衛という百姓がいた。ある年は日照りが続いたが、庄兵衛は自分の田にだけ水を引いて、他の者へ水を回さなかった。ある時、見慣れない僧がやって来て、水を他の田にも回すよう諭した。ところがそれを聞いた庄兵衛は、怒りにまかせて僧に額を鍬で打ちつけた。傷を負った僧は何も言わずその場を立ち去る。不審に思った庄兵衛はその後を追っていくと、僧は地蔵院の門前で姿を消した。境内の堂内を見た庄兵衛は、その中に置かれた地蔵の額から血が流れだしている姿を見て、全てを悟った。それ以降、庄兵衛はわがままを言うことなく、他の村人と仲良く暮らしたという。

アクセス:京都市北区一条通西大路東入ル大将軍川端町