白峯神宮

【しらみねじんぐう】

創建は明治元年(1868年)。京都の中では最も新しい神社の一つであると言えるだろう。しかし、祭神は崇徳上皇と淳仁天皇である、明治天皇の勅願ということで戦前の社格は最上位・官幣大社である。

この神社の名前の由来は崇徳上皇崩御の地である白峰山からとったものであり、公式の形で崇徳上皇の霊が京都へ戻ってこられたことを意味する。崇徳上皇と言えば史上最強の祟り神とされ、生きながらにして魔王となることを宣言した人物である。その祟りの凄まじさは、死の直後から起こった源平の合戦を鑑みれば納得できる。

だが、なぜ幕末から維新にかけての動乱期に崇徳上皇の御霊を京都へ奉還してきたのか。表向きは孝明天皇の発案、明治天皇の勅願となっているが、実際には、政治的な意図があると言われている。一つは維新の動乱が崇徳上皇の魔力によって引き起こされたものであることを強調するため、そして一つは崇徳上皇の 祟りによって主権者の地位から転落した朝廷が、京都に帰ってきていただくことで上皇と和解、主権を取り戻したことを暗に示そうとしたためであると考えられる。

新しい神社を創建するということで選ばれた土地は、堀川今出川東入ルの飛鳥井家の邸宅跡であった。飛鳥井家は“蹴鞠”の宗家であり、その邸宅には【鞠の精】を祀った精大明神があった。この神社は鎮守の神という訳で、白峯神宮創建後もその敷地内に置かれることになった。

球を扱う神様だからということで、精大明神のある白峯神宮は【球技の神様】に変身してしまった。かつてはパチンコに御利益があると言われ、今や「蹴鞠は日本のサッカーの原点」ということでサッカーの神様にもなってしまった。

さて、この【鞠の精】であるが、藤原成通という人物が千日に渡る蹴鞠修行を果たした直後に現れた三人の神様で、猿のような童子の姿をしていたとされる(名前は夏安林・春陽花・桃園と名乗る)。この精のおかげで、成通は神業級の蹴鞠が出来たという。

<用語解説>
◆崇徳上皇
1119-1164。第75代天皇。上皇となるも実子が天皇となれなかったため院政をおこなえなかった(天皇の直系尊属でなければ院政はできなかった)。実弟の後白河天皇の時に保元の乱を起こし、敗北。讃岐へ配流となる。京都への帰参が許されないこと知り、大魔縁となると宣告して薨去。陵墓も讃岐白峰山にある。

◆淳仁天皇
733-765。第47代天皇。藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱の直後、仲麻呂と関わりが深い理由で孝謙上皇によって廃位、淡路に配流される(孝謙上皇は称徳天皇として重祚)。翌年淡路にて薨去。淡路廃帝と呼ばれる。明治3年、明治天皇によって追号を受け、同6年に白峯神宮に合祀される。

◆藤原成通
1097-1162。正二位・大納言。“蹴聖”と称される蹴鞠の達人。蹴鞠をしながら、10人の侍の肩の上を渡ったが、誰一人として重さを感じた者がいなかった。台盤の上で蹴鞠をしたが沓の音すらなく、鞠の音だけしかしなかった。清水の舞台の欄干の上を蹴鞠をしながら往復した。といった数々の蹴鞠にまつわる伝説を残す。上記の鞠の精との邂逅は『古今著聞集』にある。

◆飛鳥井家
蹴鞠の飛鳥井流師範を家業とする一族。飛鳥井雅経(1170-1221)を祖とする。祖父の難波(藤原)頼輔が藤原成通の教えを受け継いで蹴鞠の名人であった。

アクセス:京都市上京区今出川通堀川東入ル飛鳥井町