二尊院 楊貴妃の墓
【にそんいん ようきひのはか】
楊貴妃は唐の玄宗皇帝の寵愛を受け、その結果、国が傾くほどの混乱(安史の乱)が起こってしまう。その責に負わせるかのように、楊貴妃は逃亡のさなかに殺され、その生涯を終える。これが史実である。ところが、楊貴妃は中国で死んだのではなく、日本に亡命してきていたという伝説が残されている。
長門市にある二尊院には、楊貴妃の墓と呼ばれる五輪塔が残されている。土地の伝承によると、玄宗皇帝の悲嘆を察して、楊貴妃は殺されることなくうつろ舟に乗せられて海に流され、やがて長門の地に漂着する。しかし間もなく当地で亡くなり、埋葬されたというのである。
その後、玄宗皇帝の夢枕に楊貴妃の霊が現れ、日本に漂着して亡くなったことを伝えた。そこで追善供養のために、唐の秘仏である釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を日本に送ったのである。しかし、楊貴妃が日本のどこで亡くなったのかが分からないため、この仏像は都の寺院に長らく置かれていた。やがて楊貴妃の墓が長門にあることが判り、二仏も長門へ移す命が下るが、長年都に置かれていたことから長門へは名仏師が模刻したものを渡すことになった。これが現在もある二尊院の本尊である。
二尊院は寺伝によると大同2年(807年)に最澄が建立したとされ、楊貴妃の生きていた時代よりも後の時代に建てられたものである。また玄宗皇帝が二仏を日本へ送り届けたという話もなく、また都(京都または奈良)にそのような由来を持つ寺院はない。おそらくさまざまな言い伝えが重なり合ってできた伝承なのだろうが、ただ非常に不思議な魅力に溢れるものであることは間違いない。現在、二尊院周辺はちょっとしたテーマパークのような小公園になっている。
<用語解説>
◆楊貴妃
719-756。玄宗皇帝の寵姫。皇帝が楊貴妃の親族を高官にしたり、寵愛のあまり政治を顧みなくなったことから世情が乱れ、やがて安史の乱を引き起こす元凶とされた。絶世の美人とされ、絵画や文学などで題材として取り上げられることが多い。
◆玄宗
685-762。唐の第6代皇帝。治世の前半は善政を敷き、唐の最盛期を迎える。しかし後半は楊貴妃を寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こすなどした。
◆安史の乱
755-763に起こった大規模な反乱。楊貴妃の従兄で宰相である楊国忠と、節度使(地方統括者)の安禄山との皇帝の寵を競う対立から起こる。強大な軍事力を持つ安禄山が首都を奪取、政権を崩壊させる。楊国忠は逃走中に殺害され(直後に楊貴妃も殺される)るが、乱は治まらず、安禄山の死後は部下の史思明が反乱を継続する。
アクセス:山口県長門市油谷