栗山孝庵女刑屍体腑分之跡碑
【くりやまこうあんじょけいしたいふわけのあとひ】
萩往還は、長州藩の藩庁のあった萩から山口を経て防府に至る、約50kmの街道である。長州藩にとって最も重要な街道の1つであり、古くから整備されて多くの往来があった。こういう街道の、城下から少し離れた場所にはおおよそ処刑場があった。萩往還もその例に漏れず、大屋刑場があった。
道の駅萩往還から数分の場所に刑場跡がある。名残としてその場所にあるのは、供養のために作られた大きな地蔵と、大きな石碑である。この石碑が「栗山孝庵女刑屍体腑分之跡」と呼ばれるものである。
日本で最初の腑分(人体解剖)は、宝暦4年(1754年)、京都の漢方医・山脇東洋らによるものであった。そして4年後の宝暦8年(1758年)に2番目の腑分をおこなったのが、栗山孝庵である。その時は男性の遺体を使ったのであるが、翌年の宝暦9年に、日本で最初の女性の解剖をおこなったのである。この偉業を讃えるために造られたのが、この大屋刑場跡にある石碑なのである。
記録によると、腑分に使われた罪人の素性ははっきりしている。萩城下の川上村の百姓・久衛門の妻の阿美濃(おみの)という女性である。処刑された時の年齢は17であった。暴力に耐えかねて夫を殺した罪ということで、本来は磔刑となっていたのであるが、内臓が傷つくという理由から、孝庵が藩に働きかけて斬首刑に変更してもらったという。
<用語解説>
◆栗山孝庵
1731-1791。毛利家の侍医を務める。山脇東洋の高弟であり、腑分を積極的におこなったのも、東洋の影響が大きかったと考えられる。
アクセス:山口県萩市椿