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妙湛寺

【みょうたんじ】

周防の大内氏は、平安時代には在庁官人として勢力を伸ばし、鎌倉時代に周防国守護として一国を支配していた。さらに南北朝時代に入ると隣国の長門国を実力で奪取、さらに南北朝合一の時点(1392年)で6ヶ国の守護を任ぜられる守護大名となっていた。

この急速な拡張を不安視したのが、時の室町将軍・足利義満である。義満は当主の大内義弘に対して様々な圧力を掛け、ついには武力衝突を誘発させる。これが応永の乱(1399年)という戦いとなり、義弘は摂津堺で討ち死にしてしまう。そこで幕府は、この戦いで降伏した弟の大内弘茂を臣従させ、周防・長門2ヶ国のみの守護に任命した。

ところがこの決定に異を唱えたのが、同じく義弘の弟である盛見である。地元の留守を預かっていた盛見は、義弘の遺言を受けており、幕府に屈した弘茂と争ってそれを退けた。最終的に弘茂派の主立った者を討ち取ったため、幕府もやむなく盛見を周防・長門の守護と認めたのである。応永11年(1404年)のことである。

守護の座を巡って実弟達と骨肉の争いをしたためであろうか、幕府から家督を正式に認められたばかりの盛見は思わぬ行動に出る。当時、盛見には豊久丸という男児がおり、一方義弘の遺児も幼いながら残っていた。応永12年(1405年)のある日、鰐石川(椹野川)で一子豊久丸が舟遊びをしているところ、あろうことか盛見が我が子を川に突き落としたのである。数え5歳の幼子はそのまま川に流され、やがて10kmほど下流の岸辺に亡骸が漂着した。盛見はこの地に我が子の葬ると、一寺を建立した。これが妙湛寺の始まりである。

現在でも妙湛寺の境内奥にある覆い屋の中に、豊久丸の墓とされるものが安置されている。そして盛見の死後に大内家の当主となったのは、義弘の遺児であった持世である。

<用語解説>
◆大内盛見
1377-1431。大内氏第11代当主。兄・義弘が応永の乱で討ち死にした後、幕府に対して抵抗し、実力で弟の弘茂を排除して周防・長門の守護となる。足利義満死去後上洛して幕政にも参加、北九州地方の平定に尽力した。九州遠征の途中、筑前国で討死。
実子に長男・教幸(生没年不明:ただし1470年生存の記録)、次男教弘(1420-1465)がいるが、豊久丸の生没年と比べるとかなり隔たりがある。おそらく養嗣子とする義弘の遺児が成人した後に儲けた子と推察される。

◆大内持世
1394-1441。大内氏第12代当主。実父は第10代義弘。永享3年(1431年)に養父の盛見が討ち死にすると家督を継ぐが、待遇に不満を持つ実弟の持盛が反乱を起こす。持世は、幕府の支持を得てこれを鎮圧して討ち取った。
その後嘉吉の乱に巻き込まれ、足利義教と共に暗殺される。持世には実子がなかったため、次代当主は盛見の次男・教弘となる。教弘も家督継承の際に実兄の教幸と一戦を交えており、3代にわたって当主の座を巡って兄弟間で骨肉の争いを繰り広げている。

アクセス:山口県山口市小郡下郷

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