瑞泉寺
【ずいせんじ】
木屋町三条という京都の繁華街・歓楽街の一角にある寺院であるが、門をくぐり境内に入ると途端に落ち着いた雰囲気に包まれる。
江戸時代に治水工事がおこなわれる以前の鴨川は、現在のように真っ直ぐ流れることなく蛇行し、いくつもの中州を持った広い川であった。今の河原町通りが、かつての鴨川の河原であったとも言われているほどである。瑞泉寺がある辺りも、かつては鴨川の中州であった。そしてこの地で凄惨な事件が起こる。
文禄4年(1595年)7月8日。時の関白・豊臣秀次に謀反の疑いありとして、伏見にいる太閤秀吉の許に出頭する命が下った。ところが伏見での対面は叶わず、秀次は剃髪するとそのまま高野山へ向かったのである。それに追い打ちを掛けるように、8日の内には愛妾らが捕らわれて監禁、重臣も次々と切腹を命ぜられていったのである。そして15日高野山に使者が到着し、秀次に切腹の沙汰が下り、小姓3名をはじめとする者も殉死、首級は京都へ持ち帰られた。
しかし太閤の怒りはそれだけは収まらず、大名預かりとなっていた家老7名に切腹を命じ、そして8月2日に三条河原で秀次の妻子全員の処刑が執りおこなわれた。
しつらえられた刑場には塚が設けられ、その上に秀次の首級が据えられた。その首級の前で斬首の刑が始められた。はじめは4名の男児と1名の女児。一番上の男児でもまだ5歳という年端のいかない子供達にも情け容赦なく刃が振り下ろされた。そして愛妾達も次々と首を刎ねられ、数時間を掛けて全39名がこの時に命を落としたのである。さらに処刑が終わると、全ての遺体は無造作に1つの穴に投げ入れられ、そこにまた塚を造って、秀次の首級をおさめた石櫃に年号と日付、さらに「秀次悪逆」の文字を刻み込んで目印として置いた。それ故に“悪逆塚”という名で呼ばれるようになったという。
その後、鴨川の氾濫などで塚そのものも荒廃して明確な所在が分からなくなっていたが、慶長16年(1611年)に高瀬川開削事業を進めていた角倉了以が偶然石櫃を発見、秀次とその妻子・家臣らを供養する旨を幕府に願い出て、塚があったされる場所に本堂を持つ寺院を建立、秀次の戒名から寺号をとった。それが瑞泉寺の始まりである。
瑞泉寺の境内には、三条河原で処刑された39名の妻子、殉死した家臣10名の供養塔が建てられ、それらに守られるように秀次の供養塔がある。そしてその供養塔の中心部には、今もなお首級をおさめた石櫃が安置されている。ただしそこには既に「秀次悪逆」の文字はない。発見した角倉了以が瑞泉寺を建立する際に削り取ったとされている。
<用語解説>
◆豊臣秀次
1568-1595。豊臣秀吉の姉の子として生まれる。跡継ぎのいなかった秀吉に取り立てられ関白に就任。しかし実子の秀頼が生まれて以降、秀吉との関係が上手くいかないようになり、最終的に謀反の疑いを掛けられて関白の位を剥奪、高野山へ追放、自刃に追いやられる。凡庸・暴虐との評がある一方、古典収集や城下町建設などで功績も残す。
◆秀次事件の原因
秀吉の血縁者で唯一生存する成人男性である秀次を死に追いやった理由は現在も不明。ただ公的に発表された“謀反”については、早くから否定されている。他の理由としては「悪逆の限りを尽くしたため」「秀頼誕生で存在が邪魔になったため」「秀次排除を目論んだ石田三成の陰謀」などの説が挙げられている。
特に「秀次悪逆」説は根強く、比叡山で鳥獣を狩る、上皇の喪に服さない、辻斬りをおこなうなどの具体的な噂があった。
◆角倉了以
1554-1614。京都の豪商。朱印船貿易を手がけ、大堰川・高瀬川の開削工事をおこなう。また幕府の命を受けて、天竜川などの開削工事も手がけた。
アクセス:京都市中京区木屋町三条下ル石屋町