大友大権現

【おおともだいごんげん】

周防大島と呼ばれる屋代島は、瀬戸内海で3番目に大きい島である。江戸時代、この島は萩藩毛利氏の所領であり、藩の船手組頭・能島村上氏の給地であった。そのため村上氏の家老職にある大野氏が代々島に常駐していた。

この屋代島にあるのが能島村上氏の菩提寺・龍心寺であり、その境内にあるのが、大友大権現である。祀られているのは、大野氏の子孫である大野友之丞である。

大野家の次男に生まれた友之丞は、文武両道に優れ、また美男であったとされる。友之丞は島を離れて京へ上ると、内裏に仕えていわゆる“北面の武士”となった。その勤めぶりは実直で、大いに信頼されるようになると、九州への巡見使に任ぜられた。しかしこの西国への旅が悲劇となる。 萩藩の三田尻港(山口県防府市)に到着した友之丞であるが、ここで藩の侍と悶着を起こして狼藉を働いたのである。萩藩の士分から見れば、友之丞は朝廷の使いであっても、出自はあくまで同輩の家臣(陪臣)の身分。そこで諍いが起こったらしい。そして危害を加えた友之丞は拘束を受ける。

ところが友之丞は三田尻を脱走して故郷の屋代島へ舞い戻る。親族は藩と諍いを起こした友之丞を歓待せず、さらに友之丞は祝島(上関町)へ移った。一方、藩も捕縛の役人を派遣するが強すぎて捕まえられず、とうとう親族が説得して自首させた。

吟味の結果、友之丞は死罪と決まった。ただ藩としては親族が助命嘆願すれば恩赦するつもりだったが、親族からは一向にその声が上がらない。そしてとうとう期限が来てしまったため、寛政11年(1779年)3月29日、友之丞は斬首に処せられたのである。享年42。首は獄門台に晒されたが、家臣がそれを盗み出して屋代島の大野家累代の墓に葬ったとされる。

処刑前に友之丞は「自分は大志を抱きながら、信を失って惨い最期となってしまった。もし死後に自分を信ずる者があれば、首から上の病気は必ず治そう」と言っていた。そこで人々が墓所へ病気平癒に来るようになり、その効験からお堂が建てられ、大友大権現として信仰されるようになった。現在でも首から上の病気平癒祈願のために近隣はもとより、近県からも参拝に来る者があるとのことである。

<用語解説>
◆能島村上氏と大野氏
能島村上氏は能島(現:愛媛県今治市)を本拠とする、水軍を率いる一族。村上氏は因島・来島にも別家があるが、宗家は能島であるとされる。中国四国の大名からは独立した存在で、状況に応じて敵味方となっている。毛利氏とは厳島の戦い(1555年)以降加勢することが多く(一時期離反もあり)、豊臣秀吉の天下統一の頃には臣下となっていたようである。
大野氏は伊予国浮穴郡の有力国人の家柄である。能島村上氏との関係は、1552年から始まる大野氏の家督争いから、庶兄であった大野直秀が加勢を要請に行き、そのまま村上氏に仕えて家老となったのが始まりである。

◆“大友”の名称考察
明確な由来は判然としないが、大野氏は大伴氏を祖先と任じており、そこから採られた名称の可能性がある(大野氏は、大伴旅人からさらに遡り、大友皇子が始祖であると主張しているので、そちらからかも)。あるいは大野友之丞を略して“大友”としたとも。

アクセス:山口県大島郡周防大島町西屋代