大臣塚
【だいじんづか】
『雉城雑誌』によると、寛永13年(1636年)に前年の大風で崩れた塚を修復するよう時の領主であった日根野吉明が命じ、その時に石棺が発見され、中から刀や短甲そして人骨が出てきたと伝わる。これらの出土品は再度埋められ、その塚の上に吉明の命による碑が今も建っている。
この大臣塚は、形状から5世紀頃の前方後円墳であったと推測されているが、現在は直径40m・高さ10mの後円部分だけが現存している(前方部分は既に削られ痕跡もない)。ただこの古墳は、かつてこの地を治めたとされる“百合若大臣”の墓であると言い伝えられており、そこから「大臣塚」という名が付けられている。
百合若大臣は左大臣・公光の子で、春日姫を妻として豊後の国司となる。その時九州を攻めてきた蒙古を征伐するよう命ぜられた百合若は、自分以外誰も引くことのできない鉄弓を用いて、対馬の沖で敵を散々に討ち果たしたのである。ところが帰途で玄海島に寄った百合若は疲れを取るために寝ている内に、部下の別府太郎らの裏切りによって島に置き去りにされてしまう。戻った別府らは、百合若は病気で陣没したと報告し、豊後の国司の地位を奪い取り、さらには妻の春日姫まで我が物にしようとした。
姫は夫の無事を信じて疑わず、愛鷹の緑丸の足に文を付けて飛び立たせた。すると緑丸は玄海島の百合若の元に辿り着き、百合若は着物の切れ端に血文字で自らの無事を伝えたのである。喜ぶ姫は、緑丸に硯や筆・紙を結びつけて飛ばすが、その重さに耐えきれず失速、翌朝百合若のいる浜へ死骸となって漂着した。しかし祈りが通じたのか、間もなく百合若は漂流した漁船を使って豊後に戻り、“苔丸”と名乗って別府太郎の小者として仕えて復讐の期を待ったのである。
そして正月の弓始の儀で、別府太郎を挑発して鉄弓を手にした百合若は、その場で名乗りを上げて別府らを成敗し、再び豊後の国司の地位に就いたのである。
百合若大臣の話は16世紀半ばに成立した幸若舞や、それに基づく読本や人形浄瑠璃などで流布し、全国各地に伝説が残されている。その中でも大分地方には物語の舞台となったとされる場所があるなど、百合若伝説の代表的な伝承地となっている。
<用語解説>
◆『雉城雑誌』
豊後府内藩士であった阿部淡斎(1813-1880)が天保年間(1831-1845)に著したとされる地誌書。豊後府内の神社仏閣や名所旧跡などを編纂した著書。
◆百合若伝説
最も一般的な幸若舞の物語では、嵯峨天皇の御代(809-823)との設定となっており、また豊後国司ではなく筑紫の国司(ただし妻は豊後国に居住している)となっている。さらに別府太郎になびかない妻が処刑されようとし、身代わりの娘が池に沈められるとの展開もある。
そしてこの物語の成立時期、英雄が戦地からの帰途に漂泊しその間の出来事の復讐を果たすという展開から、ホメロスの『オデュッセイア(ラテン語名:ウリッセス)』を翻案したものではないとの説が、明治以降取り上げられている。
アクセス:大分県大分市上野丘