大避神社

【おおさけじんじゃ】

聖徳太子の協力者として歴史上に名を残す、秦氏の長・秦河勝が主祭神(大避大神)となる神社である。何故畿内から離れた地に秦氏の長を祀る神社があるのかだが、世阿弥の『花伝書』に次のような逸話が記されている。

聖徳太子亡き後も畿内にあった秦河勝であるが、皇極天皇3年(644年)に難波からうつろ舟に乗って都を離れ、西へと流されていった末に漂着したのがこの坂越の浜であった。浦人が舟を上げて見ると人とは違う姿になっており、人に憑いて奇瑞を見せたので神と崇めたという。

他にも地元では言い伝えがあり、秦河勝が畿内を離れたのは蘇我氏の専横に命の危険を感じて退避したためであり、そのようにしてこの地に祀られたので“大避”の社名となった。またうつろ舟が最初に漂着したのは坂越の浜にある生島で、浦人が舟を見つけた時には河勝は生きていたためこの名が付いた。さらに生島に最初に漂着したので、河勝の墓はこの島に築かれ、祭礼以外では立ち入りが憚れる禁足地となっている。あるいは河勝はこの地に辿り着くと、千種川流域の開拓に着手して3年後に亡くなり、そのことから千種川流域には大避神社の分社が点愛する、などさまざまに言われている。

その後江戸時代になると、坂越の浜は北前船の寄港地として栄え、大避神社はその名から航海安全・災難除けのご利益のある社として大いに信仰されるようになった。現在でも300年以上続く祭事として、12艘の和船による船渡御(船祭り)がおこなわれる。

<用語解説>
◆“大避”の名称
「大避(おおさけ)」の名称は秦氏と密接に関係しており、畿内における秦氏の本拠地である京都・太秦には、秦河勝が建立した広隆寺の鎮守社であった「大酒神社」がある。
また漢字表記の場合、「おおさけ」は【大闢】とも書き、これは中国では【ダビデ】を意味する。つまり「おおさけ」とは古代イスラエルの王の名を漢字表記したものが、いつしか異字に置き換えられて日本語読みされたものであるという説がある。これについては【日猶同祖論】の根拠の一つとされている。

◆秦氏と世阿弥
伝説によると、秦河勝はものまねが得意で、それを見た聖徳太子が66番の芸能にまとめさせた。それが能楽の原形である猿楽の始まりであるとされる。このため秦河勝は能楽の祖でもあり、世阿弥も河勝の末裔であると自称していた(『花伝書』に河勝の事績が書かれているのも家祖であるため)。
なお大避神社には、河勝自らが彫った、あるいは聖徳太子から賜ったとされる蘭陵王の舞楽面が社宝として納められている。

アクセス:兵庫県赤穂市坂越

三重

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