神倉神社 ゴトビキ岩

【かみくらじんじゃ ごとびきいわ】

現在は熊野速玉大社の境外摂社という扱いとなっているが、神倉神社はこの周辺でも古社の一つとして数えられる神社である。

記紀によると、神武東征の時、紀伊に上陸した神武天皇の下へ高倉下(たかくらじ)という者が神剣フツミタマを献上したとされる。この剣は高天原より霊夢によって遣わされたものであり、これによって神武東征は成功することになる。この剣を献上した高倉下がこの神倉神社の祭神である。

さらに時が下り、熊野信仰が盛んになると、熊野三神が諸国を巡り阿須賀神社に鎮座する前に降臨した地として神倉神社が挙げられるようになる(『熊野権現垂迹縁起』による)。要するに、熊野の神が現在の大社に鎮座する前の前、神々がこの鎮座する土地に最初に現れた場所と認定されたのである。この神社がいかに重要な地位を占めるかが分かる伝承である。

この神社の御神体がゴトビキ岩である。ゴトビキとはこの地方の言葉で“ガマガエル”を意味する。岩そのものが蛙の姿に似ているせいであろう。この岩が小高い山の頂上に鎮座しているのである。まさに巨石を磐座とみなし、それを崇拝する自然信仰がそのまま神社の形態を取っていると言うべきであろう。またこの岩を神武天皇が東征の際に上ったとされる天磐盾(あめのいわたて)とみなすという説もある。

この神社がいかに崇敬を受けていたかの一つの証左として、このゴトビキ岩までつけられた石の階段がある。源頼朝が寄進したという、自然石で組み上げられた階段は全部で538段。非常に急で険しい階段である。例大祭ではこの急峻な階段を闇夜の中で松明片手に一気に駆け下りるという神事がおこなわれる。その後で、阿須賀神社を経由して熊野速玉大社を巡る神事であり、おそらく神の降臨を表現するためにおこなわれるようになったものではないかと推察する。

<用語解説>
◆高倉下
高倉下が見た霊夢は、アマテラスとタカミムスビが争乱を鎮めるためにタケミカヅチを遣わそうとすると、フツミタマの存在をタケミカヅチが進言し、倉の中にその神剣を置くと告げられたという内容である。高倉下はまた天香山命(あまのかぐやまのみこと)と同一とされ、その名前で尾張氏の祖先、弥彦神社の祭神とされている。

◆フツミタマ
布都御魂。神武天皇による大和平定後は、物部氏の祖である宇摩志麻治命(うましまじのみこと。天香山命とは兄弟神にあたる)によって管理される。崇神天皇の代になって、石上神宮の御神体となる。明治時代に禁足地から発掘され、現在は神殿に祀られている。

アクセス:和歌山県新宮市神倉