高野山 壇上伽藍
【こうやさん だんじょうがらん】
高野山といえば空海の開いた真言宗の総本山であり、標高900mの山頂にある要塞のような宗教都市である。その中核は金堂・根本大塔をを中心とする“壇上伽藍”である(このエリアの管理は金剛峯寺がおこなっている)。このエリアは特に観光の中心地でもあり、取り立てて説明の必要もないだろう。だが、ここには高野山開山にまつわる伝承の物件がある。
遣唐使として唐にあった空海は、帰国の直前に「有縁の地を探す」べく、法具である三鈷杵(さんこしょ)を海上はるか遠くへ投げ飛ばしたという。そしてその三鈷杵は高野山の松の枝に引っ掛かっていたため、その地を真言密教の修行場としたのであった。
この松は現在でも受け継がれており、金堂と御影堂の間に植えられている。この松には非常に顕著な特徴があり、三鈷杵が引っかけられたために、松葉が三つに分かれている(普通の松は二つに分かれている。ちなみにこの松の葉も多くは二つに分かれており、三つに分かれているものはそれほど多くないという)。この三つに分かれた松葉を見つけだし、それを持っていると幸運が訪れるらしい。
空海がこの高野山に修行の場を開くに当たっては、もう一つの伝承がある。空海がこの地を訪れた時に、高野山へ導いた者があった。それは黒白二頭の犬を従えた狩場明神(高野明神)であった。狩場明神は、この高野山を護る丹生都比売大神(丹生明神)の御子神である。 空海は高野山を嵯峨天皇から賜ったことになっているが、実質的にはこの二神から譲られた形になっている。
壇上伽藍の西端に御社(みやしろ)と呼ばれる、丹生明神と高野明神を祀る神社がある(十二王子百二十伴神も同じく祀られている)。記録によると、空海は壇上伽藍建築に際し、この御社を最初に建てたとされる。鎮守社であるから最初に建立するのが当然と言えば当然なのだが、壇上伽藍の一角に、しかも主要な堂宇に比肩する大きさを持つ社を見るにつけ、それだけこの二神に対する畏敬を感じざるを得ない。
<用語解説>
◆空海
774-835。真言宗の開祖。諡号は弘法大師。讃岐国に生まれ、若くして数々の霊場霊山にて修行に励んで出家、31歳の時に留学生として唐で真言密教を伝授される。2年後に帰国、43歳の時に高野山を建立。50歳の時に救王護国寺(東寺)を建立。62歳で高野山にて入滅。全国各地に伝承を持つ。
◆金剛峯寺
現在は、真言宗の管長が住む総本山寺院のみを指しているが、明治より前は高野山の伽藍の総称として使われていた。壇上伽藍を管理しているのはそういう事情から来ている。
◆三鈷杵
法具である金剛杵の一種。金剛杵は柄の両端に槍状の刃が植えられており、インドの神の武器が原型となっている。煩悩を討ち滅ぼし、菩提心を示すものとされる。三鈷杵はその金剛杵の刃の部分が3つに割れているものを指す。空海が投げた三鈷杵は現存、重要文化財である。
◆丹生明神
丹生という名称は、古来、丹=辰砂(朱砂:朱の原料)を扱う一族に付けられたものであり、丹生明神はその守神となる(総本社である丹生都比売神社は、伊都郡かつらぎ町にある)。辰砂は後に水銀精製になくてはならない原料となる。高野山一帯もこの辰砂の採れるエリアである。
◆高野明神
狩場明神とも言われる、丹生明神の御子。その姿は猟師の衣装であり、山中を分け入って歩く者を表していると思われる。丹生明神の御子という立場から、高野明神は丹生一族そのものの象徴ではないかと考えられる。
アクセス:和歌山県伊都郡高野町高野山