皇祖皇太神宮

【こうそこうたいじんぐう】

この神社は、明治43年(1910年)に竹内巨麿が茨城県で“再興”した天津教に属し、その来歴は『竹内文書』の記述に詳しい。

この文書では、天地創造は《天神七代》と呼ばれる神々によって成された。地球は第四代の神によってほぼ造られたが、その次の第五代の夫婦神が初めて地球に降臨する。文書によると、岐阜県高山市の船山がその降臨地とされる。さらに第六代の夫婦神は地球に滞在するための神殿を同じく高山市にある位山に建てたという。

そして長い時が過ぎ、今から約3000億年前に第七代の2人の神の子が天皇・皇后となり、地球に定住して統治することとなる。これが《上古二十五代》と呼ばれる時代の始まりである。この時、天皇は位山から神殿を富山に移設した。それが現在皇祖皇太神宮が祀られる一帯なのである。

文書によると、上古王朝の第二十一代が伊弉諾尊であり、二十二代天照大神、二十三代天忍穂耳命、二十四代瓊瓊杵尊、二十五代彦火火出見尊と続き、次代の鵜葺草葺不合命が《不合朝七十三代》を興すとされる。そしてこの王朝の七十三代が神武天皇となり、新たに新しい王朝《神倭朝》即ち現皇統となるのである。とにかく気が遠くなる来歴である。

文書の記述に従えば、この地は世界の統治者である天皇が住まう聖地であり、全ての人類発祥の地となる。それ故に世界の宗教的偉人は全員この地に滞在し多くの事柄を学んだという。しかし上古王朝の後半から始まった天変地異によって日本を中心とする世界王朝は衰退し、この一帯に栄えた王朝もいつしか崩壊して跡形もなくなってしまったのである。

車で行ける一番最寄りの場所から約10分ほど山歩きをすると、やがて小社が現れる。周囲にある現代的な建物は見えず、整備された参道と掃き清められた境内は至って静かで凜とした空気が流れているようにも感じる。現在では知る人ぞ知るパワースポットとして訪ねる人も少なくないと聞く。

<用語解説>
◆竹内巨麿
1875?-1965。富山県新保村(現富山市、ただし神社とは10km以上離れている)出身。天津教の開祖。明治43年(1910年)に茨城県北茨城市に皇祖皇太神宮を“再興”し、いわゆる『竹内文書』と呼ばれる様々な遺物を公開する。

◆『竹内文書』
第25代武烈天皇の頃、竹内宿禰の孫である平群真鳥が著したとされる。原本は、竹内巨麿が不敬罪で起訴された時に押収され、その後の東京大空襲で焼失している。現在では巨麿自身が作成した偽書であると認定されている。

アクセス:富山県富山市金屋