日輪神社

【にちりんじんじゃ】

国道158号線を高山市街から上高地方面へ向かう途中、道路に面して一の鳥居が立っている。神社は鳥居の真正面に位置する、美しい円錐形の山の中腹にある。創建などの記録は残っていないが、天照皇大御神(天照大神)を祭神とし、少なくとも中世には「日輪宮」の名で通っていたと考えられる。

日輪神社はその社殿がある山そのものを御神体としているが、この山がその美しい形から「人工ピラミッドではないか」という説がある。主張したのは、上原清二。

上原は陸軍大佐で神宮奉斎会高山支部長という地位にあり、昭和9年(1934年)に当地で講演をおこなった酒井勝軍より「飛騨は神代の中心である」話や「上野平の平面ピラミッドの鑑定」の話を聞くに及んで感化され、人工ピラミッドの可能性のある飛騨一帯の山を踏査し、その結果、日輪神社で人工ピラミッドの物証となる太陽石を発見するに至ったのである。さらに上原の考究は続き、日輪神社は飛騨において最初に造られた人工ピラミッド(太陽神殿)であり、そこから16等分された方角にそれぞれ人工ピラミッドが造営されたという説を打ち立てたのである。

この途方もない説の背景にあるのが『竹内文書』であり、地球に神々が降臨して最初に神宮を建てた場所が“日球国”の位山と明記されており、“日球=飛騨”が世界最初の文明発祥の地とされている。さらにそこに降臨した天皇は、世界を16の方位に分けて統治したのである(これが天皇家の紋章・十六葉菊のモチーフとする)。上原はこれらの説を援用・補完する形で自説をまとめていったと考えられる。

これらの経緯をふまえて、日輪神社は現在でも指折りのパワースポットとして全国的に知られている。しかしながら人工ピラミッドにとって最も重要な役割を果たすはずの「太陽石」が既に山頂近くの位置にはなく、しかもそれを割ろうとした鏨の跡が付いており、何らかの意図的な破壊を実行しようとした痕跡がある。

<用語解説> 
◆上原清二
生没年未確認。高山市在の人物であり、上にもある通り“日本ピラミッド”の発見者である酒井勝軍に感化され、飛騨地方にあるピラミッドの発見・調査を精力的におこなっている。昭和16年(1941年)に『日霊国:飛騨神代遺跡』を上梓し、「飛騨神代遺跡研究会」の発起人となっている。戦後は公職追放されているが、神代遺跡に関する著述があるとのこと。

◆神宮奉斎会
元々は、伊勢神宮に設けられた教派神道の一派「神宮教」が母体。明治32年(1899年)に神宮教が解散して、神宮奉斎会として財団法人化する。後に昭和21年(1946年)に解散し、神社本庁の母体となる。

◆日本ピラミッド
酒井勝軍が提唱・発見した、超古代史上の遺跡とされるもの。エジプトのピラミッドと異なり、日本の場合は元からある山に手を加えて人工的な円錐形に整えるという工法が採られる。また山中には遙拝のための“鏡石”“方位石”などがあり、そして山頂に丸い形をした“太陽石”が置かれているといった条件を元にして選定されている。

◆文明発祥の地としての飛騨
『竹内文書』では、約360億年前に天神7代の天御光太陽貴王日大御神大光日天神が地球に降臨し、位山に皇子のための宮を建てたとされ(この皇子が即位して上古25代が始まり、地上での統治が本格化する)、ここに“日球(飛騨)国”が成立する。
一方で、飛騨出身の超心理学者・山本健造が、教員として赴任した地で病気を治すなどの超能力を発揮していた折、“語部翁”より日本人の起源に関する口碑を託されたとされる。
これによると、海の中から浮かび出た淡山(乗鞍岳)の池から生命がおこり、人間も誕生した。最初人間は乗鞍岳の頂上付近に棲んでいたが、気候変動で下山した。人間は生命発生の池に映る太陽や月を見て精神統一する習慣を得ており、これを“日抱の御魂鎮”と称し、そこから“日抱=飛騨”という名が始まったとする。
いずれの説も位山を最重要視しており、日輪神社に関してはあまり言及されていないようである。

アクセス:岐阜県高山市丹生川町大谷