大岳院 里見忠義の墓

【だいがくいん さとみただよしのはか】

創建は慶長10年(1605年)。関ヶ原の戦いでの功績で米子を領した中村家一門の重臣・中村栄忠が父の菩提を弔うために建立した(大岳院の名は父の院号から取られている)。しかし中村家は嗣子がいなかったため改易となり、しばらくこの地は幕府直轄地の天領となる。

慶長19年(1614年)に倉吉藩という名目で同地を領有することになったのは、安房等12万石の国持大名であった里見忠義である。当時の幕府を揺るがした大久保長安事件の余波を受けての処分で、3万石に減封の上で領地替えという形でおこなわれた。しかし実際にはわずか4000石しか与えられず、事実上の改易状態であったという。

倉吉の神坂町(現在の東町あたり)に居を構えた忠義は曹洞宗であったため、同宗派の大岳院に3石余りの土地を寄進したり、また周辺の社寺の再建などを手がけるといった、領主としての役目を全うするような動きをみせていた。

しかし元和3年(1617年)になると、因幡伯耆は池田家が治めることとなり、倉吉の土地も召し上げられ、忠義にはわずか百人扶持のみが与えられた。追い打ちを掛けるように、倉吉の町中から郊外へ移住させられ、さらに辺境にまで追いやられたのであった。領地召し上げの頃より病気がちになったとされる忠義は、元和8年(1622年)に29歳で病死する。これにより安房の名族里見氏は歴史から消えることになる。

忠義は遺言により大岳院に葬られたが、死から3ヶ月ほど後に、最後まで付き従っていた家臣の8名が殉死する。彼らも大岳院に葬られ、現在では忠義を守るように墓が置かれている。この8名の家臣の戒名には、忠義の戒名から取られた「賢」の文字が入れられており、そのことから“八賢士”と呼ばれるようになった。そのためこの8名の殉死が、後の滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』の主人公達のモチーフとなっているのではないかとされている。

<用語解説>
◆里見氏
鎌倉時代より御家人の家柄であり、室町中期以降に安房を拠点とする。戦国時代は主に後北条氏と対立し、たびたび戦がおこなわれる。豊臣秀吉の関東攻めの時には、安房・下総・上総を領有していたが、拝謁が遅れたために安房一国に減封。これ以来、関東に入府した徳川家康と懇意になる。関ヶ原の戦いの功績により12万石を得るが、大久保長安事件の連座によって没落する。
忠義には3人の男子があったとされ、子孫はそれぞれ他家に出仕や下級旗本として存続するが、実子であるかには疑念の余地がある。

◆大久保長安事件
幕府の勘定奉行であった大久保長安が私的に蓄財をおこなったと死後に露見し、慶長18年(1613年)に一族が処刑された。この事件をきっかけに政争が起こり、翌年には、長安の後ろ盾となっていた小田原藩の大久保忠隣が改易処分となった。里見忠義は正室が忠隣の孫娘であったことから連座した(その他違反行為もあったとされる)。しかし移封の最大の目的は、関東に唯一ある外様大藩であるため、口実を設けて排除しようとしたのではと推測されている。

◆『南総里見八犬伝』
滝沢馬琴の代表作であり、伝奇物語の傑作。刊行より28年の歳月を掛けて天保13年(1842年)に完結する。全98巻。物語は、安房里見家の勃興からはじまり、息女の伏姫と霊犬八房の縁によって結ばれた8人の“犬士”の活躍を描く。

アクセス:鳥取県倉吉市東町