糟目犬頭神社

【かすめけんとうじんじゃ】

糟目犬頭神社の創建は大宝元年(701年)にまで遡ることが出来るが、当初は隣の上和田村の糟目集落にあったためこの名が付いたとされる。その後たびたび起こった洪水のために、建久元年(1190年)に現在地に遷座したとされる。その後も崇敬は篤く、征夷大将軍となった足利尊氏や徳川家康が寄進をおこなってる。

この神社の主祭神は創建当初より彦火火出見尊であるが、他の祭神の一柱に犬頭霊神がある。これが祀られた経緯については、以下のような伝説が残されている。

南北朝時代に上和田城主となった宇都宮泰藤がある時鷹狩りをおこない、この神社の境内の木の下で休憩をしていた。しばらくまどろんでいると、連れて来た犬が突然激しく吠えだした。機嫌を損ねた泰藤は犬を叱責するが、それでも犬は鳴き止まない。とうとう怒り出した泰藤は刀を手にすると、犬の首を刎ねてしまったのである。

勢いよく刎ねられた犬の首は高く宙を舞い、休憩していた木の上まで届くと、そこにいた大蛇の喉元にがぶりと噛みついた。犬の首と共に地上に落ちてきた大蛇を見て、泰藤は犬が吠え続けた理由を悟り、己の軽率な怒りを後悔した。そして丁重に首を葬り、神社の祭神として祀ったという。

ただ、犬頭神社の縁起については別説があり、『今昔物語集』巻第二十六にも詳しい物語がある。

三河のある郡司には2人の妻がいたが、郡司は本妻の許に寄りつかず、本妻の家は寂れ飼っていた蚕も全滅した。その後桑の葉にいた1匹の蚕を新たに飼いだしたが、ある日その蚕を白い犬が食べてしまう。それを嘆いていると、くしゃみをした犬の2つの鼻の穴から白い糸が出てきた。それを引っ張り出すと見事な糸がものすごい量で取れ、それが尽きると犬は死んでしまった。犬の死骸を桑の木の下に埋め、糸を持て余していると、夫の郡司が通り掛かり大量の美しい糸を見て驚き、さらにその奇瑞を聞いて畏れて本妻を大切にするようになった。そして犬を埋めた桑の木に多くの優良な蚕が育ち、美しい糸を出すようになり、やがて三河国の特産品「犬頭糸」となったという。

さらに宇都宮泰藤との関連から、この神社に新田義貞の首級を密かに祀り、その首塚が弁財天を祀る池の中にある島であると言われている。宇都宮泰藤は、鎌倉幕府攻撃の挙兵時より新田義貞に属した武将であり、越前で義貞が討死するとその首級を奪い取り三河へと赴き、この神社の周辺に土着したとされる。義貞を討ち取った足利尊氏や、新田氏の子孫を称する徳川家康がこの地方の一神社にそれなりのまとまった金銭や土地を寄進する理由はここにあるというわけである。

<用語解説>
◆宇都宮(武茂)泰藤
1302-1353。下野宇都宮氏の支流・武茂氏の当主。史実では新田義貞の鎌倉攻めから参陣し、新田軍の主力として勇名を馳せる。義貞が越前で討死すると、義貞実弟の脇屋儀助などと共に美濃へ撤退。さらに尾張で儀助と別れ三河の上和田城に入って再起を図る。しかし降伏の勧告を受け、出家して三河に没する。
以降、武茂氏は三河に土着して続き、後に徳川氏譜代の臣・大久保氏の祖となる。

アクセス:愛知県岡崎市宮地町