火雷神社(魔法様)/久保田神社/魔法神社

【からいじんじゃ(まほうさま) くぼたじんじゃ まほうじんじゃ】

岡山県吉備中央町を中心としたエリアで、現在でも3ヶ所の所縁の神社が残り、篤く信仰されたのが“魔法様”ことキュウモウ狸である。数ある神格化された狸の中でも最も数奇な生涯をたどったと言えるが、その一部始終を嘉永2年(1849年)に記された『備前加茂化生狸由来記』に即して紹介していく。

まずこのキュウモウ狸は日本の生まれではない。永禄11年(1568年)、南蛮国の王である合甚尾大王の悪逆の企みによってバテレンを乗せた船が日本へ来航するが、その船に乗って渡来した狸なのである。ただその生まれは天竺の与那国と自称しているので、おそらくインドのゴア港でポルトガル船に紛れ込んで来日したと考えられる。日本が神国だからという理由で希望して来日したキュウモウ狸は、上陸すると真っ先に摂津国の住吉大社に参詣している。このことからおそらく南蛮船は泉州の堺に寄港したと思われる。この年、堺は織田信長の圧力を受けて自治権を失おうとしている風雲急を告げる事態となっており、そんな中をキュウモウ狸は何年か過ごしていた。そして伊勢神宮へ参詣する牛がいるとの話を聞きつけ、牛の背に乗せてあった柳行李の間に飛び乗って行き着いた先が、この牛の在所である備中国呰部村(真庭市)であった。その後は近くの山の岩窟で暮らすようになり、地元の狢に子を生ませている。

ちなみに雌のキュウモウ狸もいたらしく、雄を慕って“なつ”という女に化けて備中へ下っていたところ、加茂市場(吉備中央町)で犬に襲われ噛み殺されてしまった。その後この町では放火による火事が頻発したという。

元文6年(1741年)になって備前国加茂郷に銅山が見つかって賑やかな町が出来ると、キュウモウ狸も町にある茶屋に繰り出して遊び狂った。しかしそれも束の間、銅山は閉じてしまう。そこでキュウモウ狸は備中には戻らず、銅山の廃坑をねぐらに暫くひっそりと暮らすことになる。

明和9年(1772年)ある夜を境に、キュウモウ狸は牛鍬を打ち鳴らし「サニヤン、サニヤン」と音頭を取って、郷の人々の前に姿を現すようになった。人に化けて人家に侵入し、郷の者の噂を言いふらしたり、時には田植えの手伝いをし、村祭りの踊りの輪に加わったりもした。捕らえて殺そうする者があればその家を焼き払ってしまう祟りをなし、円城寺の住職に諭されるも周辺の町々で偽の金を使って遊興するなどの悪行も数々おこなったという。ところがある夜、また「サニヤン、サニヤン」と音頭を取って自らの出自を語りだすと、今後は牛馬の難を助け、火難盗難を告げて善人を助けると宣言した。さらに僅かの時間で棲んでいた山に大量の注連縄を渡すという奇瑞を見せたため、人々はキュウモウ狸を摩利支天の社の隣に祀り《魔法宮》として崇めることとなったのである。牛馬の難を助けるのはおそらくキュウモウ狸がこの地にやって来た縁によるもの、火難盗難除けはキュウモウ狸の最も得意とする妖術であるためだろうと推測出来る。

一方、キュウモウ狸と狢の間に生まれた子は、ある時人に化けてふらりと遊里に現れて頬四郎と名乗ると、店を挙げての大酒宴を開き、大枚をはたいて去って行った。その姿が消えると金は全て石や木の葉に変わってしまったという。さらに細田という村では、親譲りの火の災いを毎日のように起こし、村人の祈願を嘲笑うかのように、警戒を解いた直後に火をつけるなどの悪行をおこなった。そこで村人は《摩王宮》の祠を建てて、火難の神として祀ったところ、以降パタリと悪行をしなくなった。ただその後も、強欲な者や酒色に耽る者が参詣すると、金玉の皮を広げ被せて視界を遮って迷わせる悪さをしたという。

さらに頬四郎には3匹の子がおり、それぞれ頬赤介・背四郎・四ツ四郎と呼ばれた。頬赤介は加茂郷水谷という場所で通りがかる人や牛馬に悪さをしていたが、上田村の篤志家が地蔵を建てて円城寺が供養したところ収まったという。背四郎は和田村で火の災いを起こし人々を悩ませたが、近郷の者がこぞって村にあった天王宮(吉備中央町和田にある素戔嗚神社のことか?)で祓いをしたところ、火災の守護神となったという。そして四ツ四郎は通谷にあって、悪人を煽って悪事に走らせ、病人を増やし、各所で悪事をおこなったため、木山(真庭市)の善覚稲荷社のお告げで上山の大久保陸奥守という社司が祈祷蟇目の儀をおこない退治したという。その後、頬赤介・背四郎の子達は特に悪事を働くこともなく、恙なく暮らしているという。

以上のように、上田西にある火雷神社がキュウモウ狸を、細田にある久保田神社がキュウモウ狸の子・頬四郎を祀る神社として現存している(頬四郎の子を祀る社や祠が現存しているかは不明)。そしてそこからかなり離れた場所にある魔法神社は、おそらくかつてキュウモウ狸が盛んに信仰された地域での記憶の痕跡なのであろう。たまたま現地でお話しする機会があった方がごく自然に神社を指して「魔法様」と呼んでいたのが、凄く印象に残っている。

<用語解説>
◆合甚尾大王
南蛮国の王とされるが、詳細不詳。永禄11年であれば、当時のポルトガル国王はセバスティアン1世(1557-1578)、スペイン国王はフェリペ2世(1527-1598)であり、いずれかが該当するが、実際は架空の想定であろう。

◆円城寺
吉備中央町円城にある寺院。715年に行基によって開創されたとされる古刹。江戸時代には岡山藩池田氏の崇敬を受ける。境内にある鎮守の提婆天が有名である。

アクセス:岡山県加賀郡吉備中央町上田西(火雷神社)
     岡山県加賀郡吉備中央町細田(久保田神社)
     岡山県総社市槁(魔法神社)