小谷城址
【おだにじょうし】
小谷城は、戦国時代に北近江地方を統治した浅井氏3代の居城である。初め浅井氏は、近江の北半分を治める京極氏の被官であったが、初代・亮政の時代に主家の後継者争いが起こり、最終的に主家の後継者を擁立して主導権を握ることに成功する。しかしここから先は、南近江を支配する六角氏との抗争に明け暮れることとなる。
亮政は、六角氏に対抗するために、越前の朝倉氏と同盟を結び(朝倉氏が主、浅井氏が従の関係であったと推測される)、以降強い結びつきを維持した。次代の久政は、六角氏からの激しい攻撃に耐えきれず、ついには臣下の扱いを受けるに至った。それに対して久政の嫡男である新九郎は六角氏に反旗を翻して、浅井氏の独立を勝ち取った。そして名を長政に改めると、父を強制的に隠居させ、さらに尾張の織田信長の妹・市を娶ることで新しい同盟を結んだ。これにより浅井氏は六角氏との抗争に終止符を打ち、戦国大名として確乎たる地位を築いたのである。
だが、この浅井と織田の同盟はあっけなく崩壊する。元亀元年(1570年)、朝倉氏を討とうと兵を出した織田氏に対して、浅井氏は同盟を破棄して朝倉氏と共に挟撃を試みたのである。撤退を余儀なくされた織田信長は、その2ヶ月後の姉川の戦いで浅井朝倉連合軍を打ち破り、浅井氏の居城である小谷城の南に位置する横山城に木下秀吉(後の豊臣秀吉)を城番に置き、小谷城攻略を開始する。
そして天正元年(1573年)、信長包囲網を形成していた武田信玄が甲斐へ撤退、そして首謀者である足利義昭も京より追放となり、信長は大軍勢を率いて小谷城攻略を始める。援軍に駆けつけた朝倉義景を一気に打ち破り、そのまま越前まで追い込んで滅亡させると、籠城する浅井軍を攻め立てた。戦国屈指の山城とされた小谷城も猛攻に晒され、一部を占領されると、隠居の浅井久政が自刃。そして覚悟を決めた長政は、妻の市と3人の娘を投降させ、それを見届けると自刃した。これにより小谷城は落城する。
浅井氏旧領を与えられた木下秀吉は、新たに湖岸に長浜城を建て、小谷城は浅井氏3代の居城のまま廃城となって歴史の表舞台から完全に消えてしまった。その後、昭和12年(1937年)に国の史跡に指定されるまで、ほとんど手を加えられることなく打ち棄てられた状態であったため、建物こそ朽ちてしまったが、石垣をはじめとするその城の縄張りは残されている。
かつての遺構として残されたものの中に“首据石”と呼ばれる大きな石がある。天文2年(1533年)、初代・亮政が京極氏家中での実権を掌握し、六角氏との衝突が始まっていた。京極家中の有力武将であった今井秀信が六角側に内応したという知らせが入ったため、亮政は秀信を呼び出して謀殺。その首を小谷城の城門近くの大岩に置いて晒したとされる。
<用語解説>
◆浅井亮政
1491-1542。京極氏の被官であったが、主家の相続争いに中で台頭し、国人衆の指導的立場となって家中の実権を握る。本拠は小谷城。戦国大名としての浅井氏の初代。
◆浅井久政
1526-1573。亮政の嫡男。凡庸であったとされる。久政の代になると、六角氏の圧力に屈して、半ば従属する形となる。嫡男の長政が六角氏に反旗を翻して独立を勝ち取ると、家臣より隠居を強制される。ただし先代当主としての発言権は失っておらず、織田との同盟を破棄して朝倉方に味方するように強く進言したのは久政であると言われている。小谷城落城の数日前に自刃。
◆浅井長政
1545-1573。新たに織田信長と同盟を結び、信長の妹の市を娶り、一男三女をもうける。織田の朝倉侵攻を機に同盟を破棄、信長包囲網の一角を担う。しかし調略による家臣の裏切りや、織田方の迅速な攻撃展開によって小谷城は孤立し、落城。落城に際して妻と娘は織田方へ投降させ(男子は逃亡させるが、直後に捕縛され磔に処される)、自身は城中にて自刃する。
翌年の正月、織田家内輪の年賀の席において父・久政、同盟を結んでいた朝倉義景と共に、その頭蓋骨を薄濃(はくだみ:漆を塗り金粉をまぶしたもの)にされて飾られたとされる。(酒器にして家来に強制的に飲ませたという逸話は、実際にはなかったとされる)
◆木下秀吉
1537-1598。後の豊臣秀吉。浅井長政が同盟を破棄した時の織田軍撤退時(金ケ崎の戦い)には殿を務めて以来、対浅井攻略の主力となる。姉川の戦い後には横山城の城番として小谷城の監視を行い、さらに多くの浅井家家臣を織田方に引き込んでいる。また小谷城落城の戦いでも、城への一番乗りを果たしている。これらの戦功により浅井領を与えられ、織田家中でも数少ない城持ち武将となる。
アクセス:滋賀県長浜市湖北町伊部