自性寺 ケンヒキ太郎

【じしょうじ けんひきたろう】

中津藩奥平家の菩提寺である。奥平家の転封に従って各地を移転、享保2年(1717年)に現在地に移ってきた。その後明治維新まで奥平家が中津にあったため、現在もこの地にある。南画の大家・池大雅がしばらく逗留して、多くの作品を残していることで有名な寺院である。

自性寺には河童にまつわる品物が残されている。「河童の詫び証文」と呼ばれる書状であり、“ケンヒキ太郎”という名の河童が、天明6年(1786年)6月15日付けで書いたものとされる。

ケンヒキ太郎は、真玉寺の小僧や女性に取り憑くなどの悪さを働いたため、自性寺の十三代・海門和尚によって改心させられたとされる。そして詫び証文を書いたのであるが、境内には河童の墓があり、改心して仏門に入信したものと考えられる。

さらに境内にある観音堂には、ケンヒキ太郎の木像が安置されている。またこの観音堂の鬼瓦は全部で10個あるが、そのうちの1つが河童を意匠したものとなっている。ちなみに残り9つの鬼瓦は、かつて奥平家に災いをもたらした9人の山伏を表しているとされる。

<用語解説>
◆池大雅
1723-1776。中国の南宗画の影響を受けた画風の「南画(文人画)」を大成したとされる。自性寺十二代・堤洲和尚と親交があり、和尚の自性寺赴任に伴って、妻の玉蘭と中津へ赴いた。

◆九つの鬼瓦
奥平家第3代の昌能(1633-1672)が宇都宮藩主であった時、川で釣りをしていると水が濁って魚が捕れなかった。上流で山伏が水垢離をしていたのが原因と知ると、これを斬り捨ててしまった。この出来事に抗議した弟子の山伏9名も始末してしまった。その後、昌能は、家臣に殉死を強要した罪などにより減封の上で山形に配置換え、跡継ぎの男子も早世するなどしたため、山伏の祟りと噂された。

アクセス:大分県中津市新魚町