円応寺 河童の墓
【えんおうじ かっぱのはか】
円応寺は天正15年(1587年)に黒田孝高の開基で建てられた寺院である。この寺には河童にまつわる伝説が残されている。
江戸時代の中期頃の話。円応寺の住職・静誉寂玄上人は、川で相撲を取って遊んでいる河童に向かい「生きることの苦しみも知らずに遊び暮らしている、哀れな河童よ」と言い放った。それを聞いて怒る河童たちであったが、上人は「世の中は楽しいことばかりではなく、苦しいことも多い」と諭したのである。
数日後の夜、円応寺にたくさんの河童たちがやって来た。上人が訳を尋ねると、3匹の河童の頭領は「上人の言葉に感じ入った。人の苦しみを知って後世のものに敬われるようになりたいので、上人に教えを請いに来た」と言う。上人は河童たちを本堂に招き入れ、そこで30日あまりの修行をおこなった後、3匹の頭領にそれぞれ戒名を授けたのである。
河童の墓は、この戒名を授けられた3匹の頭領の墓であるとされる。それぞれの戒名は、本誉覚圓信士(俗名:岡本宇兵衛)、本誉覚心信士(俗名:竹本三太夫)、本誉覚源信士(俗名:蔵本要助)となっており、今でも追善供養がおこなわれて塔婆が供えられる。
その後、河童たちはお礼として寺を火事から守ることを約束したという。その代わり、皿の水が乾かないように境内に小さな池を作ってくれるように頼んだ。この池も残されている(ただし水はほとんどない状態であった)。
また中津にある山国川を渡る時には「円応寺の門徒だ」と言うと、水難から免れるとも伝わる。
アクセス:大分県中津市寺町