夜泣き石(有田)
【よなきいし(ありた)】
JR箕島駅の裏側(北側)、山裾の住宅地にある。扁額を掲げた入口を入ると、1辺が2mぐらいの直方体に近い巨石がある。この石の上に赤ん坊を乗せると、夜泣きがぴたっと治まると言われている。かつては近隣から願掛けに来る人も多かったらしいし、現在でもよく手入れされている。
豊臣秀吉が覇権を握った後も抵抗し続けていた地域の一つに紀伊があった。天正13年(1585年)、秀吉は根来寺・粉河寺・雑賀衆・高野山といった反秀吉勢力一掃のため、紀州征伐を敢行した。兵力は約10万と言われる。主将は秀吉の弟・羽柴秀長であった。
破竹の勢いで進軍する秀長の軍勢であったが、箕島に至ってその歩みが止まった。箕島には反秀吉勢力の領主・宮崎隠岐守定秋が守る宮崎城があったが、その末娘である霞姫の美貌を聞き及んだ秀長が姫を差し出す代わりに城を攻めないという申し出をおこなったのである。しかし、霞姫には宮崎城に寄寓する殿本帯刀輝綱という許嫁がいるため、申し出を断固として拒否すべしと言う者がある一方、既に根来寺や粉河寺が焼け落ちており、もはや敵の言うままに従うしか道がないという者もおり、城内では動揺が広がった。
そうやって男共が騒いでいるうちに、霞姫の母は若い二人を城外に逃がしてやった。二人の幸せを願ってのことであったのは言うまでもない。だが、事の次第を知った秀長の怒りは尋常なものではなかった。すぐさま大軍に命じて城を攻撃すると、城にいる者を皆殺しにし、城も町も跡形なく焼き払ってしまったのである。
それから1年が経ち、紀伊征伐も終わった頃。かつて宮崎城があった場所の川向こうにある大きな石のそばに、乳飲み子を抱いた若い女が夜な夜な現れるという噂が立ちだした。そして間もなく、大きな石の上に乳飲み子を残し、若い女は川に身を投げて死んでしまった。その残された乳飲み子の顔は、城を出て失踪した霞姫にそっくりであったという。
<用語解説>
◆箕島と宮崎氏
箕島の町は、田辺別当・湛全の弟であった宮崎定範が嘉応元年(1169年)にこの地に城を構えたのが始まりとされる。特に港と街道という交通の要衝として栄えたとされる。しかし上述の通り、天正の紀伊征伐によって、一族は滅ぼされている。
アクセス:和歌山県有田市箕島