天草四郎の墓
【あまくさしろうのはか】
昭和59年(1984年)、天草の大矢野島で“室町後期から江戸前期の豪農の住居跡”が発見された。その後の調査の結果、出土品や細川家の史料と突き合わせて、その住居跡が益田甚兵衛の住居である確率が極めて高くなったのである。
益田甚兵衛好次は、元は小西行長の右筆とされ、関ヶ原の戦い以降は帰農していた。そしてその子が益田四郎時貞、即ち天草四郎である。要するにこの地が天草四郎の出生地であるということになるわけである。
ただの草っ原である住居跡へ行く道へ国道266号線から進入する交差点に、天草四郎公園(天草四郎メモリアルホールも併設)がある。この小高い丘の部分に天草四郎の像と墓がある。墓といっても、実際には慰霊碑のようなものである。出生の地に近い場所との理由で建てられたものであると言えよう。さらにこの同じ場所にはいくつかのキリシタン墓が移設して置かれている。いずれも江戸初期のものであるとされている。
<用語解説>
◆益田甚兵衛
1583?-1638。天草四郎の父であり、同時に島原の乱では一揆軍の評定衆の筆頭として作戦立案に加わっている。乱の最後である原城落城の際に討死。
◆天草四郎
1621?-1638。本名は益田時貞とされる。数々の奇跡を起こすと噂され、16歳で島原の乱の指導者とされる(実質的な主導者ではなく、象徴的存在と考えられる)。原城趾に籠城するが、幕府軍総攻撃時に自害したとされる。
アクセス:熊本県上天草市大矢野町中