阿蘇神社

【あそじんじゃ】

肥後一之宮である。主祭神は健磐龍命(たけいわたつのみこと)。祭神は一宮から十二宮までの12柱となっている(いずれも健磐龍命の一族)。

健磐龍命は神武天皇の孫にあたり、その命によって阿蘇へ赴き、開拓の神となったとされる。その当時、阿蘇山の外輪山の内側は巨大な湖であった。そこで命は、この水を抜いて田畑を造ろうと決め、外輪山を蹴破ろうと試みた。最初に蹴った場所が破れなかったために、場所を代えて試してみると見事に蹴破ることができた。しかしその時に命は尻餅をつき「立てぬ」と叫んだので、その地を“立野”と呼ぶことになったという。流れ出た水は白川となって海へ注ぐことになったが、水が抜けていくと同時に底に大きな鯰がいるのが分かった。命はそれを斬って退治し、全ての水を流すことができたという。

阿蘇神社は阿蘇山の北に位置しており、その参道は社殿に対して正面にならない横参道となり、まっすぐ進むと阿蘇山へ通じるように見える。そのため、この神社は阿蘇山そのものを信仰の対象としたのが始まりではないかとの説も存在する。

神社の起こりは、健磐龍命の子である速瓶玉命(阿蘇都比古命)が孝霊天皇の御代に阿蘇国造に任ぜられた際に、両親を祀ったことによるとされている。それ以降、速瓶玉命の子孫が阿蘇氏を名乗り、代々宮司を務めている(現在で90代目を超える、日本屈指の名家である)。

<用語解説>
◆阿蘇氏
天皇家に繋がる古来よりの名家。阿蘇神社宮司を代々務めると同時に、近隣の地を領有する大豪族でもあり、武士団を率いて源平の合戦の折には源氏方に与している。その後、南北朝時代には南朝方として戦い、その後も勢力を維持しながら戦国大名へと成長していく。しかし島津の肥後侵攻の中で大敗し、戦国大名としての阿蘇氏は終焉。豊臣秀吉の九州統一後は、阿蘇神社宮司としての地位のみ認められ、現在に至る。

アクセス:熊本県阿蘇市一の宮町宮地